◎あちこちが重くなったので(596)
いよいよ体が重くなって来たので、神社に行くことにした。
お線香も切れているし、買い足す必要がある。何せ、ひと月に二箱くらいはお焼香をする。
時期的には、もうそろそろ姿を現す頃だが、この日は降雨の後の曇り空。ほとんど画像に異変は出ないと思う。こういうのは単純にTPOの問題で、出ない時には出ない。
先日のエレベーターのことがあるので、さぞぞろぞろと従えているだろうと思う。
見えなくとも対処を始める必要がある。
なお「先日のエレベーター」とは、右肩の上にバーサンに頭が載っていた件だ。さすがに気色悪いので、画像はすぐに捨て、ご供養を施しているが、単に心に思い描いただけでは、相手には通じない。
言葉に出し、行動で示してこそ、こちらの思いが伝わる(こともある)。
中学生頃に、異性を好きになったとして、一人で思い描いても何も始まらない。まずは告りに行かなくてはその先の展開が無いが、それと同じことだ。
この環境では、他の人で「何かがある」と思う人は僅かだろうが、そんなことは知ったことではない。
私は私自身のリスクを排除するために、「あの世」を観察している。
前にも書いたが、展開はこうだ。
1)何となく異変を覚える。「誰かが見ている」「呼ばれたような気がする」。最初は「気のせい」だ。
2)次第に説明のつかない事態が起きる。
今の私はこの辺だ。
シャワーを浴びている時に、何となく「前に人がいる」ような気がする。
瞼を開くが、誰もいない。
しかし、瞼を瞑り、頭を洗い始めると、やはり人の気配がする。
そこで、お湯を頭から被りながら、薄目を開けてみると、摺りガラスの向こうに人が立っている。
妻だと思い、「何か用か」と声を掛けるが、返事をしない。
洗濯か何かと思い、その影を見ながらお湯を浴びていると、台所から妻の声がする。
「じゃあ、前にいるのは誰?」
この時期を過ぎると、お湯を浴びながら薄目を開けると、「すぐ前に見知らぬ女が立っている」みたいなことが起きる。ほんの一瞬だから、「気のせい」と思い直すが、不快感が消えない。
もちろん、普通の人はここまで行かない。先に進むのは、持病があり、死期が近づきつつある者だ。
3)人の気配を感じたり、人影を見たり、声を聞いたりする回数が増える。
これはこの人が死ぬ可能性が高いことを悟り、幽霊が沢山集まって来るためだ。
早い内に手を付け、相手と同化・合体し、自我の存続に役立てるために近づく。
このことによって、いっそう体調が崩れ、死期がどんどん近づく。
4)強い幽霊が現れ、直接、あの世(幽界)に誘う。これがいわゆる「お迎え」だ。
この先はどうなるのか、まだ「あの世」の先を見たことが無いので分からない。
経験があるのは、「心停止の直後の様子」と「お迎えが来た時の状況」を見たことだけ。
確実に言えることは、周囲に幽霊が出始めたら、心身の治療を行うのと同時に、幽霊を遠ざけるための振る舞いを重ねると良い。
病気は必然だが、治療に加え、「余計な相乗効果を抑える」ことで、結果的に死期が遠ざかる。
医療による治療と祈祷の「いずれか片方だけ」を過信してはならない。
(いつも記すが、祈祷は「治して下さい」と願うことではない。病気になる前にこの世とあの世の関りについて自身で学ぶ必要がある。)
十一月頃には、誰の眼にも分かるような姿を撮影出来ると思う。
ちなみに、最後の画像の「横向きの女」が横を向いている理由は、「死ぬ直前にずっとそうしていたから」だ。亡くなる直前に、ベッドに寝たまま私のことを見ていた。
複数回眼に止めていれば、断片的なほんの少しのイメージだけで、その相手と分かるようになる。
老婆の姿ではなくなったが、死ぬと「自分が思い描いた自身の姿」を取るようになる。
私が死んで幽霊になると、おそらく三十三歳か四歳くらいの姿になる。夢の中に降り立った時の自身の姿が「自意識の状態」を示すのだが、私はいつもそれくらいの年齢でいる。
知識ではなく実践が重要だ。私はこれまで同じ神社にほぼ六百回参拝したが(一年に百回)、何となくコツが分かって来た。このため、家を出た時より、帰路の方が心も体も楽になっている。
現実には、「もはや死に掛けのオヤジジイ」であることは変わりないのだが、「行けるところまで行ってみよう」と思えるようになっている。
あの世と仲良く付き合うことの具体的な効果はこれだ。
ちなみに、大半の人には伝わらない内容なので、画像の細かい説明はしないことにした。いずれ程なく目視出来るようになるので、その時に説明しようと思う。
今はまだはっきりしない。