日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿  「見立て違いの品」

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古貨幣迷宮事件簿 「見立て違いの品」

◎古貨幣迷宮事件簿  「見立て違いの品」

 収集・研究において、「偽物を本物と見誤る」ことよりも、「本物を偽物と見なしてしまう」ことの方がはるかに愚かだと言われる。

 後者は「鑑定眼そのものが疑わしい」ことを意味するものだからだ。

 私も「本物の可能性のある品」を偽物ではないかと思っていたケースが多々ある。

 今回はそういった例を示す。

 

01および02 称浄法寺銭 鋳浚い改造銭

 浄法寺より所謂「称浄法寺銭」が発見されたのは、昭和五十年台が最初で、この時は当百錢が世に出た。その後、元々、当地にあった山内座の銭種を合わせ、平成まで幾度かに渡り、「称浄法寺銭」として、収集界に紹介された。

 だが、製作面などを見ると、通貨としての貨幣鋳造法からは離れた方法を取るものもある。鋳放しの湯口のやたら大きな銭種がそれだ。お金として仕立てるには、手が掛かり過ぎる。

 そこで、「贋作説」が出たわけだが、出来銭を幾ら眺めていても答えは出ないし、収集家の関心はほとんどが「分類」で、「希少性を知りたい」というところに留まり先に進まない。

 私は、割合、早い時期に入手したが、その後、やはり幾つか疑問を持っていた。

 その疑問のひとつは、「製造手順が違い過ぎる」と言う点だ。

 

 称浄法寺銭には、大雑把に言っても、四通り以上の工法の違いがある。

 まずは大別して「仕立て」、「半仕立て」、「鋳放し」で、最後の「鋳放し」銭にも、手順の違う二種類があるようだ。

 そして、そのどの位置に収まるのか分からぬような、ここに掲示する「鋳浚い改造銭」が存在する。なお、通常、この改造の目的は「砂抜けをよくすること」で、要するに「母銭転用」を目的とするものだ。

 「改造母銭」を目的とする加工であれば、珍しい品であるから、実際にこれが売られた際にはかなり高額だった。これは出来栄えにもよるが、五六万から二十万くらいまでの範囲になる。この存在数は全体で十枚前後である。

 

 だが、その反面、「母銭にするには見すぼらしい」という見方もある。これは私もそう思っていた。果たして本物なのか?

 

 だが、よく観察すると、真贋は別として、どの位置にあるのかは分かる。

 01の割合小型の品は、輪側の極印が山内座の後期のそれと同じであるから、台とした銭そのものは、山内銭と考えられる。この場合、山内後期銭とは、NコインズのO氏が一戸の商家から出した銭群だ。なお、「後期」と呼ぶのは、南部天保の多くはそもそも浄法寺山内錢だが、最も古い製作のものと少し製作が違うし、小型黄銅母銭の地金にそっくりなので、ひとまず「後期」としたものだ。手順は殆ど同じだが、おそらく人と時期が若干異なる。

 01は山内座の後期から、称浄法寺銭の「仕立て」・「半仕立て」銭群を作る過程で生まれたものだ。「半仕立て」群には、このような鋳浚い母銭を使用して作成した46ミリ前後の小様銭が実在するから、実際に作成に供したものもあるようだ。

 

 02も同じく鋳浚い加工を施しているが、手を加える途中だったようだ。こちらは山内後期銭が台ではなく、「仕立て」銭を素材としている。

 なお、称浄法寺銭には、大中小字のそれぞれに固有の特徴があるが、山内後期銭の中より最初の素材を取ったため生じたものである。

 「湯口が小さい」ので、「仕立て」か「半仕立て」群で、かつ穿内加工に至っていないこと。さらに、地金の特徴などから、「半仕立て」工程での出来銭に加工を加えようとしたが、まだ終わっていないという状態のようだ。

 

 称浄法寺銭のうち、明確に区分されるのは「仕立て」「半仕立て」群と「鋳放し」群との間だ。後者は湯口が鋳銭の常識を超えて、大きいわけだが、よく考えると簡単な話だ。

 この理由は「そもそも枝から切り離すことを想定していなかった」ということだ。

 要するに、意図は様々あるのだが、「枝に銭が連なった形で使用する」ものだと考えるのが自然だと思う。

 これが神社や神棚の梁に掲げるものか、あるいは商売繁盛を願うために商家に飾られるものだったのかは分からない。

 

 結論を記すと、01は「仕立て」群製作に関わる鋳浚い銭、02は「半仕立て」の工程上で作成されたものと言える。

 「仕立て」銭には市場流通銭が存在することや、極印等が酷似している品があることなどから、山内座の職人が製造に関わっていると見なされる。

 02は工程に幾つか変更があるので、直接的な繋がりについての判断は難しい。

 ただ、「通貨密造の意図を否定することは出来ない」ので、そもそも「鋳放し」系統のものとは別の銭群だということだ。

  

03 南部仰寶 黄銅母

 仰寶は、盛岡藩が大迫銭座開設の直後、水戸藩に鋳銭工法の指南を受ける際に、導入された銭種と見込まれる。小梅藩邸の仲介で主に鋳砂を調達したわけだが、水戸藩固有の銭種の母銭も譲り受けたようだ。

 水戸系の銭種としては、他に「広穿」がある。

 さて、この母銭は黄銅で、「盛岡=赤い」という認識から外れる。

 このため、「水戸銭」か、もしくは後に摸鋳された白銅系の銭群を疑ったのだが、二十年ほど放置し古色を見ると、「広穿」の盛岡藩で鋳造された最初の銭と同じ色合いになって来た。

 南部領では「寶」字の「珎」の縦引きが直立したように見える型は少ないのだが、水戸直系であれば、それも頷ける。

 何の問題も無く、盛岡(南部)藩に渡った後の初期の母銭であると考えて良い。

 

04 南部仰寶 小極印打

 この品については、幾度か経緯を記した。

 地元古銭会の役員を務めていた際に、会長のK氏より「下げ渡し」で譲られた品だ。

 「下げ渡し」であるから、嫌も応もなく受領することになるが、極印銭にはあまり興味が無かったので、高額でもあり少しゲンナリした。

 おまけに、地金が白銅である。南部領で白銅銭は少なく、多くが後出来である。

 昭和末に貨幣、絵銭とも多く作られているわけだが、それを知り、あまりよく見ずにこれも参考銭ではないかと思っていた時期がある。

 

 他にも理由があった。

 盛岡の二氏が米字極印銭の偽物を作成したことがあるが、その極印の試打プレートが今も残っている。そのうちの小極印にこれは似ている。

 

 新渡戸仙岳は、小極印銭について「橋野銭座で当百錢の極印を転用して、山内通用銭とした」と記しているわけだが、小極印は当百錢の輪側極印として使用されたものであるから、そもそも栗林座のものである。記述と合わないではないか。

 

 常々、「古銭収集家は手の上の銭しか見ぬし、古銭書しか読まぬ愚か者ばかり」と批判しているわけだが、結局、私もその一人だ。以上の小さい知識は、総てが古泉界で流布されたものだ。

 そこで、もう一度改めて点検し直すことにしたのだが、台の母銭自体は実際に存在するものだった。白銅=偽物という先入観があったので、よく見なかったが、輪側の線条痕(鑢痕)は問題が無い。

 少し小型の白銅母は、閉伊三山の母銭である可能性があるわけだが、何せこれは希少銭種だ。使われていない品があるとは考えてもみない。

 これも、「古色を見るために空気に晒してみる」というやり方で話がついた。白銅は古くなると黒くなるわけだが、この黒色が着いてみると何ら違和感が無くなったのだ。

 すっかり黒くなった母銭がたまに見られる。あれは閉伊の品だったか。

 

 しかし、まだ問題が残っている。

 母銭は閉伊のものだったとして、小極印をどう説明するのか。

 マイクロスコープで観察すると、偽極印プレートの型とは一致しないから、当初の「偽」判定を取り消すことになるわけだが、「当百錢の極印を転用した」とすれば、やはり栗林座のものである必要があるではないか。

 

 この問いに対する回答は長く掛かった。

 収集を卒業することにしたので、従前は遠慮していた話が今は言える。

 繰り返しになるが、そこで時々、言う皮肉はこれ。

 「古銭収集家は、手の上の錢ばかり見て周囲の状況を確かめない。古銭書ばかり読み、時代背景などの情報を点検しない」

 よく考えてみると、新渡戸仙岳にも、これが当て嵌まるではないか。

 新渡戸は正確には「収集家」ではなく、郷土史研究者だ。専ら古文献の収集と整理、幕末以前の記録を当事者より聴取した。

 『岩手に於ける鋳銭』も各銭座の当時を知る者から聞き取った聴取内容を基に書かれたものだ。(ここで補足すると、「各銭座の当時を知る者からだけ」話を聞いた、になる。)

 新渡戸は「米字極印銭は栗林銭座」、「小極印銭は橋野銭座」の「山内通用銭」であると記したが、その後の収集家は、それらを「イコールの関係」として捉えた。

 すなわち、「栗林座の山内通用銭は米字極印しかない」「橋野銭座の・・・」という解釈であり、その銭座以外の状況については、考えもしなかった。

 ところが、南部領内において、極印を打った寛永銭はざらにある。ウブ銭からもどんどん出て来る。

 私は「総ての銭に極印が打たれた」差銭を三本同時に入手したことがある(この場合は一文銭)。

 収集界ではこういった極印銭を「上棟銭」「記念錢」の類と見なすわけだが、少なくとも南部領では「代用貨」としての用途が存在していた。

 この場合、何故極印を打ったのか。

 これは「売り子の使用人が銭をくすねるのを防止するため」だ。

 

 昔から、この地域では馬が飼われていたが、馬の売買には「市」が立てられる。

 それが次第に牛に変わり、昭和末年くらいまでは「牛(べご)市」が春秋に行われていた。

 この牛市は数少ない現金収入を得る場であったから、当日はまさに祭りの様相となる。

 昭和四十年代に実際に「べご市」を見に行ったことがあるが、物売りや香具師が沢山屋台を出していた(百軒以上)。

 この時、売り子として臨時に人を雇い入れるわけだが、こういう者に現金を直接扱わせると、多くの場合、それをくすねる。

 これを防止するために、一旦、客からお金を一か所で受け取り、代用貨を売り子に渡して貰うことで、現金をごまかせぬようにする。

 今でいえば、店の入り口にある券売機と同じ意味になる。

 代用貨の事例としては、いわゆる「木戸銭」が存在するわけだが、あちらは「切符」の性質が強い。とりわけ維新以降はこれを寛永銭で代用した。ただ寛永銭はどこの家にもまだ残っていたから、これに極印を打ち他と区別した。

 

 新渡戸は銭座の極印銭について記したが、そういう山内通用銭の他にも代用貨として使用された銭が存在する。そしてその多くは明治以降に打たれたものだ。

 このことを知らぬ収集家は、米字や小極印銭の変化したものを「総てが偽物」と見なした。

 だが、少なくとも大正以前に打たれた打極印銭はざらにある。

 米字極印銭が収集界で評価されるようになったのは戦後のことで、昭和四十年台半ば以降だ。売れるようになった背景があるので、収集家二氏が新たに作成した。

 そのことは、明治大正戦前の極印銭とは、また別の話だ。

 要するに、明治大正期には「別の用途があった」ということだ。

 前にここで書いたが、短足寶に米字様極印が打たれた品があるが、戦前の地元郷土史や古銭会には何ら言及がない。極印は二種類あり、その内の大極印は、全品が盛岡の飾り職人が大正末から昭和初期に作ったものだ。

 大正期に飾り職人が作成したのは、希少銭として売るためのものではなく(当時は評価されていない)、客に請われて作成したものだ。当地には神社等の上棟式でこの手の銭を撒いた記録も無いから、「何か別の理由」があったということになる。

 

 南部地方では雑銭から様々な打極印銭が出るわけだが、一部ではこれを「八戸馬市」と呼んでいる。

 実際に十和田周辺から、一文銭、当四銭の打極印銭がよく出るが、北郡は昔から一大馬産地であったことから来たものだろう。

 ちなみに、中央の古錢界で上棟銭類について様々な言及がなされているが、江戸の話は地方ではあまり通用しない。名品の氏素性(由来)も作り話が多い。

 

 さて04を譲られた時に、K会長は「貴方が調べて、実態を解明してくれ」と私に言った。K会長が癌を患い、亡くなる半年前のことだったが、それからかなりの年数が経過した。

 今、K会長への私の答えはこうだ。

1)台となる母銭は閉伊三山で使われた可能性がある。ちなみに、これは滅多に見られぬ希少銭だ。殆どの収集家は、栗林と橋野、閉伊三山の区別がつかぬので、それと知らず所有しているかもしれぬ。(白銅には偽物も多い。)

2)極印は明治以降のもの。一般で使用された代用貨用になる。当百錢用の桐極印ではないが、昭和戦後の偽極印でもないようだ。

 

 最後に極印銭の事例を揚げる(05-①②八戸馬市)。

 ①は私が雑銭より選り出したもの。同じ極印を天保銭に打ったものがある。

 戦前より存在するようで、収集家を騙すための偽物とは言えぬが、銭座で作られたものでも無い。

 ②は花巻のNコインズの店頭で先輩が雑銭から出した品を譲られた。

 昭和戦後まで存在していても不思議ではなく、珍品と持ち上げたり、あるいは贋作と貶めるのはいずれも不適切だ。これは「あくまでそういうもの」と見なす必要があり、これは当地のウブ銭を調べればすぐに分かる。

 いつも記すが、入札やオークションで「珍品」を幾ら買い集めようが、実践的な知識は手に入らない。コレクションの自慢しかすることがないから、未使用品を追い求める。未使用品は使用状況に関する情報がないわけだが、そのことで、時代背景からはむしろ遠ざかるから、下点盛や異書が本物に見えてしまう。

 少なくとも、どこからどういう風に出て来た品かを詳細に訊ねるべきだ。

  

 注記)いつも通り、推敲や校正をしない一発殴り書きですので、不首尾は必ずあります。備忘録に同じ。

 

 補足1)鋳放し系統の品を①と②に分けたのは、若干、製作手順が異なることと、世に出た時期が違うことによる。後者は、平成に入ってから出て来たものだが、主に関東の入札を通じて出品された。出品者を辿って行くと、地元ではなくほぼ総てが隣県だった。意図的に東京を避けて出品されたふしもあり、また入札を通じて地元の収集家も入手していることから、充分に注意する必要がある。

 具体的には「ナ文」その他で、地元からは出たことが無い。

 

 また、前回に言及したが、O氏作も地方入札によく出ていた。要は情報交換の盛んな中央や地元を避けるように売却されたということ。

 O氏作には分かりやすい品の他に、地金を替えたものや、少し製作を落としたものがある。これも意図的なものだと思う。

 黒い系統の品では「浄法寺銭の母銭」の触れ込みの品で、この実態が分かるまでは数度入手する必要があった。

 「偽物」を「本物」として買い、「偽物」であることを確かめるという行為になる。

 

 まずは原則として「掘り出し物は入札からは出ない」ことと、それが出るのは「何か理由がある」ということを肝に銘じるべきだ。 

 もう一つは「鋳放しの通貨が残ることはない」ので、製作意図が別か、意図そのものが別ということだ。