日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「P23 南部仰寶 母銭 小極印打」

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南部仰寶 白銅母 小極印打

◎古貨幣迷宮事件簿 「P23 南部仰寶 母銭 小極印打」

 古貨幣収集界の伝統として、「下げ渡し」がある。これは先輩から後輩にコレクションを譲渡・贈与するもので、期待や励ましの意味が込められる。

 このため、対応は否応なしで、これを断る者は誰もいない。もし断れば、厚意を「不要」と宣言することだから、もはや二度とその先輩が「これという品」を分けてくれることはない。

 本当に重要な品、希少品はオークション・入札には出ずに、人から人へと直接伝授される。これは品物であっても情報であっても同じだ。

 実際、個人所有の資料の閲覧・複写をお願いする時には、幾度も訪問し、様々な付き合いを経て、ようやく閲覧させて貰える。それをコピーさせて貰えるかどうかは、蔵主の意向による。費用では換算できない面があるから、容易に渡してくれぬのは当たり前だ。

 

 当品は地元古銭会長のK氏から「下げ渡し」で渡されたものだ。

 当時、K氏が会長で、私が副会長だったが、K氏は持病が再発すると、収集品の整理を始めた。自分の先が必ずしも長くは無いと悟ったためだ。

 ある日、「ちょっと自宅に寄って行け」と言われたので、K氏宅を訪問すると、K氏は卓上に六七枚の古銭を出した。

 「癌が再発したので、この品を東京で売って来てくれないか」

 その品を見た私は愕然とした。いずれも南部の希少貨幣で一枚か数品しかない品だ。

 最も安い品で六十万、高い品は百万を超える。

 これをパッと買える人はそうそういない。

 品物を預かり、幾つかの古銭会で披露し、買い手を求めたが、さすがにすぐには買い手が出て来ない。良し悪しを判断するには、かなりの鑑定眼が要るし、鑑定眼のある人に行き着くのは時間が掛かる。欲しい人は幾らでもいるわけだが、ぱっと四五百万を出すのはさすがにしんどい。

 品物自体は半年後に関西に旅立ったが、さすがに幾らか苦労した。

 途中費用が掛かったので、所定の手数料は貰ったが、謝礼は辞退した。お金は入院代に充当するためのものだから当たり前だ。

 

 そのやり取りの中、K氏が亡くなる数か月前に、やはり自宅で渡されたのがこの品だ。

 「これは凸凹さん(私)に渡す。研究途上だが、凸凹さんが答えを出してくれ」

 その当時、私がNコインズO氏と米字極印銭について検証していたから、そのことを踏まえ、「解明してくれ」と言うのだ。

 もちろん、タダではない。小極印銭は米字極印銭の五割増しから二倍の値段になる。

 「下げ渡し」だから「否応なし」なのだが、私は正直少し困った。

 極印銭には興味を失っていたし、地金が白銅だった。すなわち、「品物自体に幾らか疑義がある」ということだ。

 

 疑義の内容は次の通り。

1)「小極印」は当百錢の側面に打たれた桐極印を指す、それなら、新渡戸仙岳の記した「山内通用銭としての使用」なら、当百を製造した栗林座で使用された母銭、極印でなくてはならない。この仰寶は栗林のものではない。

 なお、浄法寺山内座では、地元の小田島祿郎(古湶)の調べで「山内通用銭は無かった」ことが分かっている。要は山内座には盛岡銅山銭も極印銭も存在しない。この座では、製造した銭をそのまま給与として職人に渡した。(これは南部銭の「常識」なので念のため。)

2)極印自体の疑い。盛岡の二氏が昭和五十年台に米字極印や小極印を製作し、これを打って複製品を作成した。極印銭はまずこの型を疑う必要がある。また、それ以前に、明治大正期において、疑似米字の極印銭が製作されている。いつ打たれたかを特定するのは難しい。

 主にこの二つだ。

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仰寶黄銅母と白銅母

 他にも、3)昭和末年から平成初め頃に、やはり盛岡で白銅の絵銭が摸鋳されており、これが寛永銭にも及んでいる可能性がある。ま、こちらは仕上げにグラインダを使用しているから「線条痕」によって、あるいは「線状痕がない」ことでそれと分かる。

 ちなみに、南部領で黄銅や白銅製の寛永銭母銭と言えば、瞬時に浮かぶのは次の通り。

1)本座(大迫や栗林)の初期鋳銭。主に黄銅。

2)浄法寺の初期鋳銭。黄銅~白銅質。

3)閉伊三山の小型母銭。黄銅と白銅。(現存の品は大橋高炉だと思われる。)

4)二戸の「未知の絵銭座」で作成された白銅母。純白。  

 これに当て嵌まらぬものは、概ね贋作だ。

 基本的に、白銅銭にはよくよく注意が必要になる。南部の汎用母は「赤色」をしており、それがスタンダードだ。

 

 もちろん、「下げ渡し」の当品を拝受し、極印銭の研究に踏み込むことになったが、以来、十数年の間、紆余曲折が続いた。

 当初の何年間かは、この品は贋作だと思っていた。これは、白銅製の地金に関してで、閉伊三山の母銭は存在数が少なく、幾つかの限られたパターンの品しか分かっていないことによる。「小さい」「白銅か黄銅」で「浄法寺の製作ではなく本銭系」だけが手がかりになる。

 

 この解決に当たっての最初の検討は『岩手に於ける鋳銭』の検討からだ。

 疑問1)の「小極印なら栗林座であるべき」が悩みのひとつだ。米字にせよ小極印にせよ、明治大正から疑似極印が存在している。ただし、その時代には、極印銭など評価の対象に入っていなかった筈で、これが何故存在するのか。打極銭がそれなり評価を受けるようになるのは、昭和四十年台のコインブームより後のことになる。

 「米字極印風」の代表格が「南部馬市」銭なのだが、これは雑銭からも出る。私も拾った。要は「かなり前からある」。

 この答えは割合簡単だった。寛永銭に極印を打つ習慣は、割と「一般的に行われていた」ということだ。

 用途は「木戸銭」的性質のもので概ね代用貨だ。戦前の「馬市」は戦後に「牛(べこ)市」に姿を変えたが、昭和五十年頃までは春秋に各地でこの市が立っていた。

 実際にこの「べこ市」を見に行ったことがあるが、年に二度しかない「農家にまとまった現金収入の入る日」だから物売りの類も多数店を出す。人口が僅か一千人の集落に東西南北から牛を出す農家の者が集まり、その日だけは人口が三四倍になる。

 そして、それを当て込んだ屋台の類が五十も並ぶ。

 こういう屋台では、テキ屋が人を雇って物を売らせるわけだが、使用人が現金をくすねるのを防ぐためには、お金を一元管理すればよい。客は最初に事務窓口に行き、現金を代用貨に替える。屋台の売り子には、この代用貨を払う。

 この場合、寛永銭が便利だが、これはどの家庭にも残っている。それらと区分するために極印を打った。

 こう考えると分かりよい。

 昔、私は雑銭から「打極印銭の差」を複数本見付けたことがあるが、南部領では神社や自社が上棟銭を撒いた事例が見当たらぬので、不思議に思っていた。

 盛岡周辺でも丸に「+」や「−」の打極印銭は出るわけだが、一度は見事な菊花極印の品を拾ったことがある。

 要は、どれくらいまで遡ることが出来るかは不明だが、かなり前から「打極印銭が一般に使用されていた」ということだ。

 恐らく多くは明治以後だろう。明治以後も寛永銭は現行貨だったが、代用貨としてはあまり使われないものの方が使いよい。

 

 となると、まず最初に否定されるのは、「小極印銭は栗林座固有のもの」と言う考えだ。

 『岩手に於ける鋳銭』では、専ら銭づくりの側面だけが観察されており、例えば、栗林も橋野も「銭座」という表現が用いられている。しかし、生産の中心物で眺めると、栗林は元々、「銭座」として発祥したものだが、橋野は「高炉」である。橋野高炉では「鉄銭も作った」というのが実態だろう。

 極印を打つ行為は、栗林や橋野だけに限定されるものではない。

 実際、極印の型を比較すると、多種多様のものがあるし、そもそも型自体の形状が異なるから、少なくとも「栗林座の極印ではない」と言える。

 

 では次の問題は、「どこで打たれたか」ということになる。

 答えの候補には、「(A)他の銭座で同じように山内通用銭として使用された」、「(B)戦前に代用貨として巷間で打たれた」、「(C)昭和五十年台以降の贋作」というものが挙げられる。

 もしこれが偽物でなかったとしたら、(A)はもちろん、あり得ることになる。

 極印を打つ行為自体は、栗林座に限ったことではなかったからだ。

 (B)については、多種多様のものがあるので、型の形状をもって特定することは出来ない。

 (C)は、贋作極印の型が分かっているので、それと合致すれば、すなわち偽物である。 まず、消去法で最近の贋作から検証して行く。

 私が過去に鑑定を誤ったのは、「白銅母である」ことへの先入観から、「ロと⑥が似ている」と判断したことだ。

 「下げ渡し」が「勉強になる参考品」のこともあるわけだが、何せ安くはない。米字極印銭の本物が二枚は買える値段だ。

 がっかりして、「これは偽物で・・・」と記したこともある。

 だが、改めて極印の型を眺めると、「偽極印とは一致していない」。

 もちろん、南部大黒(栗林)の極印にも一致しているようには見えぬが、これは現品を既に手放したので何とも言えぬ。

 困ったことには、掲示の仰寶の極印のひとつは、桐ではなく六出星のようですらある。

 (この件は留保中だ。)

 ちなみに、六出星は栗林座の盛岡銅山銭の輪側に打たれた極印になる。後に天保銭にも使用されたが、いずれにせよ起源的には栗林座固有のものと言える。

 幾つか極印のパターンを例示したので、参考まで。

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極印の比較検証

 さて、残るは「戦前の代用貨(トークン)」と「閉伊三山の山内通用銭」だ。

 双方とも、解明すべき点が幾つか残っている。

 最大の焦点は、「閉伊三山の母銭」だろう。

 閉伊三山とは、大橋、砂子渡、佐比内の三高炉を指す。

 大橋は高炉としては日本で最初のもので、銭座として稼働していたわけではない。

 砂子渡も高炉に付属するものだ。佐比内は最も古く、元は金山だったが、金の枯渇に従って、鉄を生産するようになった。

 三山ともあくまで鉱山と高炉経営が主で、鋳銭はその一部に過ぎない。橋野と似た状況だが、橋野高炉では総ての職人を合わせて一千人規模であるのに対し、大橋はともかく、砂子渡、佐比内の鋳銭規模はさほど大きくなかったと見られる。

 大迫銭座が農民の焼き討ち(失火)で消失した後、銭座の職人は「大橋に移った」とされており(『南部貨幣史』)、その時に持参した母銭を利用し、当地で作り直したので、「本座と同じ仕様の小型の母銭」が形成されたのだろう。

 大迫との繋がりを考えるのであれば、現品の「閉伊三山製」の背盛や仰寶母銭はひとまず「大橋銭」と呼んで差し支えないのではあるまいか。

 

 閉伊三山の銭の存在数はかなり少ないようで、かろうじて見分けが付けられそうな母銭でさえ、背盛、仰寶の母銭全体の存在数三十に対し閉伊が一あるかどうかだろう。

 私はこれまで、「閉伊の母銭」と思しき品には、たった二度しかお目に掛っていない。

 もちろん、外見が見すぼらしく、浄法寺山内の母銭よりも劣るきらいがあるので、それと知らずに持つ人もいるかもしれぬ。

 

 そうなると、「戦前に代用貨として使われた」説もどうかと思う。存在数が極めて少ない閉伊らしき母銭に「たまたま当たる」かどうか。本銭は殆ど母銭使用されていないものだ。 かたや、まだ疑問点が幾つか残っている。

 疑問と言うより、「疑義」と言っても良い点だ。

 冒頭で「白銅製の偽物」について言及したが、地元で作られたグラインダ仕上げの白銅銭を除いても、大陸由来の合金製の寛永銭が存在している。

 概ねタングステン合金で、円銀の偽物は多くこれが使われている。

 この品の裏面は、幾つかヘゲ箇所のような窪みが見られるが、これが「砂笵が熱処理で固く仕上がっている」ことで剥がれるケースと、このタングステン合金で散見される「ス穴」のケースかということの二つが焦点になろう。

 タングステン合金のもうひとつの特徴に「黒変が遅い」という性質がある。銀なら空気に触れていれば銀錆が付くわけだが、この合金製円銀は黒い銀錆がなかなか付かない。

 仮に当品が白銅銭なら、銀製と同様、これも数年中には表面が黒く変色するわけだ。

 

 当初、K氏より渡された時には、この品は真っ白だったが、数年経つと表面が黒く変色して来た。そのことで単直に結論付けることは出来ぬが、もう少し経過して全体が真っ黒になれば、如何にもそれらしく見えるようになる。

 成分分析を依頼すれば、簡単に分かるのだろうが、外注でこれを頼むと、もう一枚買える以上に費用が掛かる。

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「閉伊・大迫地区の銭座一覧表」と、疑問点の照合

 一方、輪側の処理方法は機械加工の痕がなく、仮にこれが贋作なら、よほどの技量の持ち主だと言える。面背には疑点を幾つか感じるが、輪側は見事だ。穿に棹を通した上で、鑢(粗砥)を手でかけている。このため、線状痕が不規則な斜め方向になる。

 官製の安政銭などの横鑢の銭は、粗砥を固定し、銭の方を動かすから線条痕の向きが揃っている。江戸本座と地方銭の決定的な違いは「装置」になる。

 

 以上のことより、これを偽造することなど「アリエネー」話なのだが、しかし、かつては宮福蔵のように県職員でありながら鋳銭の名手となった者がいるし、昭和にも「K会長作」の作品がある。なおこちらの「K会長」は冒頭のK会長とは別人のことだ(古銭会が違う)。

 

 そうなると、この品への観察視点は、「これが果たして閉伊三山(大橋)のものかどうか」ということに尽きる。

 事実上、極印などどうでもよい話で、寛永銭収集の現場では、「どれが大迫銭で、栗林銭、橋野銭なのか」について、判別のつく収集家は殆どいない。

 「大橋銭」の解明など、夢のまた夢の話だ。こと難しいことは、南部銭は、いずれも背盛や仰寶と言った限られた銭種しかないことだ。違いは製作だけ。

 これまで、常々、「南部銭の領域は、分類志向では太刀打ち出来ない」と記して来たが、これはそういう理由だ。型の違いをもって、それを製造した銭座を当て嵌められるケースはごく稀だ。あるいは逆に、鋳造工程の中で生じた「鋳溜まり」に気を取られると、何百種類もの銭種が増えることになる。古銭収集家の九割は、どういうわけか分類のみを好む。

 

 この不首尾を解消するには、徹底して、「どういう工法で作ったか」を見極め、その中で生じる多様に見える特徴を系統的に取り纏めることだ。

 作り方が違えば、自ずから生産物にも共通の傾向が生じることになる。

 

 と、私の検討はここまで。

 「後は次の人に任せて」と記したいところだが、渡す人が見当たらない。

 そもそも、出発点となる『岩手に於ける鋳銭』の完成稿を通読したのは、盛岡のS氏周辺の数人しかいない。

 数年前に気付いたことだが、そもそもほとんど誰も原典にあたってはいない。誰か他の古銭家が記したものを受け売りしているだけで、誤謬をそのまま引き付いている。

 内容を読んでもいないのに、あれこれ批判できるところがある意味スゴイ。

 

 ここに至り、冒頭のK会長が「あんたが解明して」と渡した意味(効果)が分かる。

 必死で学び、研究するから、はっきりと見えて来ることがある。

 タダではないから猶更だ。タダで貰った物であれば、どうしても軽んじてしまい、おざなりにする。

 

 先人の見解をそのまま受け取るのではなく、「原典からやり直す」ことが肝心だ。もちろん、それには批判的見当も含まれる。

 新渡戸仙岳にとっては、古貨幣は膨大な業績の「ごく僅かな一部」に過ぎず、貨幣の製造方法等は勧業場に職人を招聘して聞いたものだ。自分なりに解釈して記すので、表現も自分なりになる。ちなみに、「二期錢」とは「次期に作った母銭」のこと、「陶笵」とは焼き型のことで、母銭を作る時の通常手法だ。特別なものではない。

  もちろん、新渡戸が古銭を作ってもいない。これは地元の者ですら調べていない。

 一人の後進の感想に憶測を付け足したものだ。

 「大家は退化の始まり」と言う。これは立派な業績を残した人が出ると、皆がその人に従い、自分の頭では考えなくなるということだ。

 銭譜の多くは「自分はこんな希少品を持っている」という自慢だけで、そこに新しい知見などない。

 

 さて、この品は、入札処理には回さずに、継承希望者の申し出を待つことにしている。

 面白いところが満載だが、疑問点も残っている品だ。

 その時に、その人にこってりと説明したいが、現物の大半は既にないので、見せられるのは画像だけになる。

 

 最後にもう一度記すが、この品の究極のテーマは「閉伊三山のものかどうか」だ。

 大橋の白銅母を確定できれば、栗林の小極印銭よりも価値がある。

 極印自体は、閉伊地区の山内通用銭の可能性もあるが、これは証明が困難だから、単に「打極印銭」という表記になる。打極自体は普通にあるものだから、特に証拠や参考になるものではない。当品はひとまず裏まで通っているようだ。

 

注記)いつも通り、手元の画像を基に、一発殴り書きで記している。推敲も校正もしないので各所に不首尾はあると思う。もはやそれしか出来ぬので、あくまで日記として記す。