日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「N53 南部両面福神母銭」「N54 南部仰寶母銭(閉伊)小極印」

◎古貨幣迷宮事件簿 「N53 南部両面福神母銭」「N53 南部仰寶母銭(閉伊)小極印」

 謎解きのゲームとしては、南部銭はとにかく面白い。

 時間はかかるが、一つひとつ疑問のベールを剥がして行く楽しみがある。

 さて、今日の出品物の解説はニ孔になる。

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N53 南部両面福神 母銭

「N53 南部両面福神母銭」

 銭譜には「大迫鋳」と掲載されているわけだが、浄法寺山内に伝鋳銭があり、山内座の初期のものも黄色い金色だ。果たしてどちら?

 それ以前に、まずは母銭か銅銭かということになるが、穿をきちんと切っている。銅銭の母としてはやや甘めだっが、鉄絵銭のそれであれば問題なし。

 原母ではないが、鉄銭をこれで作ったという線は「アリ」だ。

 鉄銭はかなり薄手だし、サイズ的にも合う。と考えていたら、マイクロスコープで拡大すると、谷の各所に鋳砂が付着していた。何のことはなく母銭で、かつ実際にかなり使われている。

 使用済み母銭の鑑定は簡単で、「表面が摩耗しているのに線条痕が少ない」という特徴を持つ。雑に擦れて減ったわっけはなく、きめの細かい砂に押し付けられたことによる。

 残るは鋳所だが、これも輪側を拡大することで簡単に分かる。

 鑢目(線状痕)は横鑢で、すなわち大迫製となる。ここは南部銭の初歩的知識で解決できる。

 ちなみに、大黒側から穿の処理が行われているので、表は恵比寿だ。

 よって、丁寧に記すなら「南部恵比寿大黒銭」となる。

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閉伊仰寶母銭の小極印付き

「N54 南部仰寶母銭(閉伊)小極印」

 この銭については既に十年以上に渡り継続して検討し、記事にして来た。

 背景も詳細を記して来たが、改めてざっと紹介する。

 この品はいわゆる「下げ渡し」で、当時の古銭会長K氏から「極印銭は君が解明しろ」と言われて渡された品だ。もちろんタダではなく、真正品として「買う」ということだ。米字より小極印は一段少ないから、気易くは買えない。

 ちょころが、その時点では、この銭の表面色は真っ白だった。

 南部銭に限らず、白い色の銭には警戒が必要だし、当時は盛岡製の白銅後作絵銭を見たばかりだったので、正直、かなり退いた。

 だが、「下げ渡し」を拒否すれば、もはや「次」の機会はない。今のようにオークション・入札誌などが浸透していると、古銭などいつでも金を出せば買えるような気がしている人が増えるが、本質は昔通り。付き合いの良くない者には本当に質の高い品は回って来ない。交流を通じ、実質的な存在数などの情報も得られるので、ひと付き合いを嫌っていれば、やはりそれなりのコレクションで止まる。

 当時の私の疑問は以下の通り。

(1)タングステン合金(中国製・グラインダ仕上げ)

(2)盛岡製白銅絵銭の仲間(昭和末年頃・丁寧なグラインダ仕上げ)

(3)銀の鋳写し

(4)昭和末の偽極印打

 などとなる。

 一時は後作品ではないかと思っていた時期があり、その由もこのブログやウェブに記している。とりわけ、小極印はかなり小型で(4)の外見に似ていた。

 

 ところがその見方が少しずつ変化したのは、ゆっくりと表面色が黒変して来たことによる。出来立ての状態が極力保存されていれば、元々は地金が白かったが、古色で本来の古銭の色になるケースが考えられる。

 (1)のタングステン合金はあまり変色しないので、まずこれが否定された。(後で分かったが輪側処理がそもそも異なる。)

 マイクロスコープ(MS)を多用するようになると、処理方法が一目瞭然となる。この仕上げがグラインダによるものではないということで、(2)も否定される。

 (3)の銀製とすれば、「トーンが進行する」筈だが、日当たりの良い窓際に放置しても、これが付着しない。よって、これも否定。

 これはつい数年前に気が付いて窓の桟の内側に置き始めて分かった。

 (4)はこれもMSで改めて詳細に見ることで相違が確認出来た。これについては似ているのはサイズだけで形はまるで違う。

 以上のことで「最近の偽物」という説は総て棄却されたわけだが、まだ大きな疑問点が残っていた。

 

(5)銭径が小型で、白っぽい色合いから閉伊三山(高炉)の母銭に見える。

 具体的には概ね大橋高炉だろうが、この高炉の鋳銭は明治に入ってからで、急いで作ったためか小型銭が多い。

 ちなみに「たぶん大橋」の根拠は、大迫や栗林などの銭座と交流があり、鋳鉄を指導する立場だったから、母銭の供与が容易だったということだ。もちろん、供与された母銭も使っただろうから小型銭ばかりではないだろうが、普通サイズの銭は他銭座と見分けがつかない筈だ。

(6)母銭が閉伊のものなのに、何故に栗林座製とされる当百銭の極印が打たれているのか。 

 これがこの件に関する最大の疑問だ。当百銭の極印を持っているなら、必ず栗林製でなければならない筈だ。

 外堀を埋める意味もあり、極印銭について調べたわけだが、明治初め頃から「銭に極印を打ち代用貨にする」習慣は、この地方では銭座に限らず存在していたことが分かった。

 では、たまたま閉伊の母銭を入手した者が、さらにたまたま何らかの用途で打ったのか?

 そんな針穴を通すような「可能性の議論」を真面目に考えるのは古銭収集家くらいのものだ。実際には有り得ない。

 そこで改めて、極印をMSで拡大すると、「極印の谷の底が荒れている」ことに気付いた。

 念のため、「打極により裏側に抜けた痕」を確認すると、アタリの裏ならひしゃげた盛り上がりになる筈が、鋳肌がそのままだった。

 両面の状況を併せて考えると、「この小極印は打極したものではなく、これを作る元の母銭に打たれていた」ということだ。要するに「栗林の小極印銭を写して鋳造した」ということになる。

 要は「栗林小極印銭の閉伊写し」ということ。栗林座から貰った(あるいは職人が持参した)母銭の中に極印銭が混じっていたのだった。

 面上の極印は、「桐」ではなく「六出星の小」のようだから、逆に「栗林銭座で当百銭の極印を寛永母銭に打った」のは、書かれている通りなのだろう。

 当該銭ではなく「その写し」だったので、様々な「迷い」がもたらされたことになる。

 

 このことが判明し、私は冷や汗を掻いた。

 一時期、「参考銭」もしくは「閉伊母銭に民間の極印が打たれたもの」として売却しようと思っていた時期があったからだ。

 危うく先輩の「下げ渡して」くれた品に泥を塗るところだった。

 

 そもそも、『岩手に於ける鋳銭』をまともに読んだことのある人が殆どいないのだから、栗林銭、橋野銭などの区分などそもそも出来ぬと思う。

 (大迫銭を入れぬのは、大迫は守備範囲が広く、境界がどこまでかを特定出来ぬことによる。) 

 ちなみに、閉伊三山については、情報が少なく、先人たちの資料にもほとんど残っていない。これまでは「小さく・薄く・白い(いくらか黄色もあり)」を手掛かりにするしかなかったのだが、「本銭系の型をそのまま縮小」しており、山内などのように多様な「変化が生じていない」ということが特徴だ。仕上げも本銭流なので、この銭を手本とすれば、選り出しが可能になると思う。

 

 この品を理解するには、大迫から栗林、橋野といった盛岡藩の鋳銭事情についてより深く知る必要があるが、果たしてこれを下げ渡せる人が現れるかどうか。

 難易度はA+級だ。私は南部銭の収集家の中で、資料と現物を照合している方だと思うが、それでも見解を確定できるまでに十五年以上掛かった。

 当品は偽物どころか空前絶後の品だった。

 あと一二年ほど空気に晒し、全体の黒変を待てば、ひと目でそれと分かる品になる。

 幾度も記して来たが、未使用銭に学ぶことは少なく、「流通済みだから分かる」ことの方がはるかに多い。

 穴銭の未使用を偏愛する気持ちが私には分からない。ま、「俺のはきれいだ」と自慢したいということなのだろう。 

 

追記)思い出を語ることはご供養になるということなので、故K氏について思い出を記す。

 K氏が南部の会長をされていた時に、私が副会長だったという縁もあり、当時はなかなか良くして頂いた。定例会に電車で行った際には、車で盛岡まで送っていただいた元が幾度もある。

 ここにも書いたと思うが、山形村のOさんという方から「墓地を改修したら古銭が出て来た。見て欲しい」という連絡が入ったのでお宅を訪ねたことがある。

 単に「見て鑑定する」だけのために、わざわざ東京から運転して行くのだから、私も物好きだった。当時は若かったし、面白そうなことには首を突っ込んだ。

 それに、わざわざ訪問したのに、「どうも有難う」で済ます人はそうそういない。幾らかは分けてくれるのが常識だ。(ちなみに「有難う」だけの人も結構いる)。

 古銭は天保銭で、黄銅製で本座式(確か広郭)だったが、本座とは違う色合いだ。

 「浄法寺の次鋳母銭に似ている」と思ったが、通用銭だし一瞥では分からない。

 「本座製ではない不知品です」とのみ答えた。寛永銭は十万枚単位の桁で所有しているそうだが、「役場の展示室に預けてある」との由。この日が日曜だったので検分は出来なかった。

 天保銭は三十枚ほどで、総て真っ黄色。一枚だけ分けて欲しかったが「これも資料室に」という意向で、譲っては貰えなかった。あれば恐らく一銭種が立ったと思う。

 その時にあれこれ雑談をしたが、「前にも古銭の人が来て」という件になった。

 「矢巾のKという人で・・・」

 これで思わず笑ってしまった。つい前の週に古銭会でK氏にあったばかりだったからだ。

 「古銭家は道楽のためには労を厭わぬ点では似たようなところがある」と思った。

 この話は時々本人にもして、笑い合ったものだ。

 ガンが再発すると、ある時腹を括ったのか、K氏は私に「家に来て欲しい」と連絡して来た。用件は「この品の買い手を東京で探して欲しい」とのこと。

 品数は五点だけだが、百万の桁の取引になるから、地方ではそうそう買える人がいない。そこで東京で、となったのだが、さすがに百万の品を二つ返事で引き取る人はおらず、なかなか苦労した。結局は関西のH氏のところに収めた。

 病院代だから、経費手数料以外の謝金は貰えない。買い手の方からも貰わなかった。

 半年後くらいにK氏は亡くなられたが、当日までベッドの手すりで懸垂をするほどだから、その日亡くなるとはだれも思わなかったそうだ。

 収集品を残したままこの世を去ると、家族が処理できぬ場合、概ね三割前後で売られることが多い。これは商品として見た場合には極めて「足が遅い」性質だからで、売れ筋のものはすぐ売れるが、残るものは十年以上残ってしまう。商品性の低い品もあるから、それくらいになってしまうのも致し方ない。

 K氏が亡くなると、地元の収集家が遺品を引き取ったらしいが、生前の付き合いでそれが私だと思った人もいたようだ。O氏にはいきなりクレームを言われたが、もちろん、私ではない。

 日頃の付き合いがあれば、遺族に「遺品を売ってくれ」とは言えない。

 収集の分野では、K氏は「良き先輩であり友だち」だったから尚更だ。

 どんな世界でも仁義が最も大切だ。ただの道楽者で終わるかどうかの違いはそこにある。若手に「古銭など見ていないで外に出ろ」というのはその点だ。   

 ちなみに、もし私が死んだ後に「古銭の方の友だちで」という者が来たら、「容赦なく下っ腹を蹴り上げろ」と息子に伝えてある(笑)。どうせロクデナシだし、遺書にそう書いてあるなら大した罪にはならない。ま、息子は190㌢だからその点、蹴られた側は大変だと思う。

 私が生きているうちに収集品は総て売却するし、残り物は次々にこれという人に贈呈している。死後には何ひとつ残っていない。

 「腹を括って処分を始める」のも、K氏の振る舞いを見て習ったことだ。

 徹底できる道楽者は少ない筈だが、私は十年前から始めているので、概ね完了出来ると思う。

 追記の方が長くなった。

 

注記)いつも通り、推敲や校正をしないので不首尾はあると思う。あくまで日々の雑感を示した雑文ということだ。