◎古貨幣迷宮事件簿 七月処分品の品評(続き)
二十四日〆切の出品物についての品評を記す。詳細は間借りサイト「古貨幣迷宮事件簿」にて。
S28 南部大字 別座 少歪有
型自体は本体(栗林または浄法寺山内)のものだが、極印が本体とも称浄法寺銭群とも異なる。別座製だと思われる。称浄法寺銭以外の別座製は珍しい。
S29 称浄法寺 中字 半仕立
輪側を整えるところまで加工したが、内郭はそのまま。すなわち、棹を通さず、1枚ずつ加工した、ということでもある。
美銭だが、大字・中字の半仕立と鋳放し銭が、称浄法寺銭の中心だった。
従前は1万5千円くらいだった。
S30 称浄法寺 本座長郭写 鋳放
湯口を鏨で落としてあり、昭和五十年代に発見された銭群だと思われる。
加工しようとしたものもあるが、仕立銭や、半仕立銭と同じつくりにはならない。
いずれも別の「手」(=職人)が作った。輪側の鑢も総て異なる。
S31 南部中字 本体 イ
盛岡藩が製造に深く関与した銅山手類。
オーソドックスな出来銭は、表の「通宝」と裏の「花押」が鋳潰れる。
盛岡銅山銭でも同じ傾向が見られる品があるので、研究が必要である。
S32 南部中字 本体 ロ
あくまで口碑だが、初期の品は「小さい・黒い・薄い」と言われる。
すなわち盛岡銅山銭の初鋳と同じ。
ウン十年前に、東京に初めて出た時にコイン店で、この品と大字の2枚を買った。
「家にあった品と特徴が同じ」だったからだ。
小学生の頃、東京から若者が来て、「古銭があったら見せて」と言うので見せてやったら、ひったくる様に持って行った。
それがきっかけで収集に興味を持つようになったのだが、鉛筆で型取りした印影があったので、誰か(確か兄)に「それは地元のものだ」と詰られた記憶がある。
それ以降、古貨幣の収集家は「いずれ誰か殺してやろう」と思うようになった(冗談だ)。
S33 称浄法寺鋳 本座長郭写し 完全仕立
称浄法寺銭群の、「完全仕立」品の中には、ほとんど山内座末期(次鋳)に繋がる品がある。流通銭から出たものや、こういったほとんど使われていないものがある。
つくり自体が古いものだ。
山内座の次鋳品の一戸発見銭(後述)の中に、称浄法寺銭と同じ型があり、それを基盤として称浄法寺銭が作られている。
ミッシングリンクの部分だが、良く調べると、連続するところとしないところがはっきりすると思う。
ちなみに、五十年代の発見時には、盛岡や秋田のコイン商や収集家が個別に呼ばれて行き、各々がひと固まりずつ買い取ったそうだ。
面白いのは、「人によって、製作の違う品を買い取っている」こと。
そのため、製作を見ただけで、これが誰を経由した品かが分かる。
この「完全仕立」群は、盛岡のSさんが買い取り、世に出した品である。
称浄法寺銭を語るには、最低でもそれくらいは調べた後の話だと思う。
ちなみに、当初の売値は5万円を超えていた。
S34 南部中字 本体 黄銅
この品を見て気付くのは、極印が違うことだ。本体に疑いはないが、桐極印が見慣れたものとは異なる。加えて、黄銅で、とりわけ裏面が小字に似ている。とりわけ、画像の右側になる。
すなわち、「栗林銭」ではないかと思ったのだ。
新渡戸仙岳の記録から推定すると、山内座が三十万枚程度で、栗林座がその十分の一。
枚数の違いは、後者が公許銭座であることと、尾去沢までの距離が遠いことと関係しているようだ。
10対1なら、ざらに見つかる筈だが、はっきりした鑑定基準が見つからず、栗林座発祥の「小字と製作が同一化かどうか」しか眼の付け所がない。六出星極印(八手様極印)であれば一発でそれと言えるが、これまで見つかっているのは数枚だ。
銅質の相違は、栗林銭の黄色は、放置してもそのまま黄色を保っているが、浄法寺山内の金は、「最初は黄色だが、次第に赤くなる」という特徴がある。
誰でも、人手で「普通の銅山手類と違う」ことに気付くと思うが、当時も4万円くらいした。
S35 南部大・中字本体(次鋳) 2枚組
このグループについて書くのは、これが最後になるので、正確な知見を記す。
この銅色の南部天保は、NコインズのO氏が、一戸町の蔵から紐通しで出たものを買い取った。一戸町のその商家は、かなり古くからある家だが、幕末には酒屋なども経営していたらしい。
この時に発見されたのは、ほぼ百枚で、大半が南部大字と中字だった。わずかに数枚の本座写しがあり、現品も別ルートから譲り受けたが、額輪との違いが分からない。
「未使用で、金色が同じ」という特徴しか無いので、そちらは実証不可能のままだ。
O氏は、まず状態が良く、大振りのものを取り置き、最初に砂抜けのあまり良くない品を東京の業者さんに売った。次にやや状態の良い品を、某古銭会を通じ売却した。
ここまでで六十枚くらいになる。
状態の比較的良い品については、収集家に小売りしたのだが、これがこの画像の品である。
最後に残った大型美銭は、主に関西のある収集家に売った。ある収集家とは数年前に亡くなったあの有名なコレクターだ。
この発見があったおかげで、山内座に関する新渡戸仙岳の既述(「山内に於ける鋳銭」)の裏付けが取れた。
山内座では、数次にわたり当百銭を密造したが、発覚を恐れ、その都度、鋳銭用具を壊し、母銭を作り直した、という件だ。
本体の最初の出来銭との相違は、金質と輪側の極印だ。とりわけ極印には、変形桐極印が使われている。
大字には、これとまったく同じ金質の「次鋳黄銅母」が存在するが、やはり同じ時期に作成したものだろう。
このグループを「次鋳」と呼ぶのは、これが「二番目以降に作られたもの」という意味ではなく、「次鋳母銭と製作が同じ」という意味になる。
ひと回り小型の品が大半だが、もちろん、二割くらいは立派なつくりの品もあった。
ちなみに、O氏の旧店舗を訪れた時に、幾度か押し入れや長押を見せて貰ったが、その中に「ほぼ未使用」の大型南部天保がずらっと入っていた。母銭式のものまであったが、それらは一旦、関西に渡ったらしい。某氏が亡くなった後に、それらの品が世に出ており、時々、収集家の蔵中に見る。
未使用の立派な銭なので、「それは次鋳で、どこから出たもの」とは言えずにいる。
O氏は骨董類の売却の件で商家を訪れたので、このひと差しは一枚幾らで買ったようだ。
「全部が南部天保なので驚きました」と語ったが、たぶん、その場でも見ていたと思う。
業者さんだから当たり前だし、たぶん、他にも売れない品を山ほど引き受けるから、それはそれでよいと思う。総額から見れば些細な品だ。
でも、南部銭の神髄は、初期の粗末な小様銭だと思う。飢饉に喘いでいた人々の心情がよく伝わる。
慶応三年の秋に、楢山佐渡は、突然、「心身症のような症状」を訴え、川井村に蟄居する。
これは一戸の川井ではなく、少し離れた旧川井村の方になる。
翌年、佐渡は政務に復帰するが、休んでいたのは、ちょうど浄法寺山内で当百銭の密造を行っていた時期になる。
これに先立つ鉄銭の時と違い、盛岡藩の筆頭家老が銭の密造を指揮していたから、もし発覚すれば、藩が咎められる。
そこで、佐渡は自身と藩との間に距離を置くことで、藩に災いが及ばぬように計らった。
楢山佐渡の本来の領地は、一戸町楢山だ。
ここで、初めて浄法寺山内座に物品を納入していたのが、「一戸商人」だったことの意味が分かる。
佐渡は日頃より、信頼を置いていた商人に到達を託した、ということだ。
手の上の銭を眺めているだけでなく、背景まで調べると、はるかに楽しいことが分かる。
楢山佐渡が「贋金を作っていた」ことは、岩手の表の歴史には出て来ず、県民の大半が知らないと思う。
歴史には、教科書で語られるような「表の歴史」と、人々の思いが込められた「裏の歴史」がある。
いつも通り、このジャンルでは推敲も校正もしません。不首尾は多々あると思いますが、私には既に終わった話ですので。