◎古貨幣迷宮事件簿 「南部銭に関する質問への見解」(3)南部天保
さて、質問(1)に対する答え方を思案している。
南部天保について、どれが栗林製で、どれが山内製なのか?
収集家であれば、率直な疑問なのだが、現状でこれらの見解は、総てが推測であり憶測の域になる。
例えばこんな具合だ。
「このひとは鼻が高いから秋田育ちだ」「色白の美人でもある」
出来上がった銭を見て、古銭家は「どこでどう作られた」と滔々と語る。
だが、せいぜい「子どもの顔で親が何県出身かを想像する」程度の話になる。
遺跡を含め、当時の状況が分かり、確たる物証が揃っていればよいのだが、こと藩や民間での密造銭となると、何ひとつ残っていない方が普通である。
「手の上の銭」に繋がる根拠はあまりないのが実情だ。
南部銭についても同様なのだが、新渡戸仙岳が丁寧に聞き書きを集め、書付け類を整理してくれたから、参考資料が残っている。彼は「何もない」ところから、人づてに「昔語り」を収集して行ったのだ。
古銭家は古銭書しか読まぬのだが、新渡戸にとっては、古貨幣関連資料は、膨大な郷土史の「ごく一部」にしか過ぎない。彼が資料を収集整理してくれたから、森嘉平衛がそれを引き継いで研究が繋がり、今、誰もが盛岡藩史の概要を知ることが出来る。
さて、申し訳ないと思うが、私の回答は添付資料に添えた通りだ。
十三年前のものであり、いまでは棄却された部分も多々ある。だが、出発点となるところの『岩手に於ける鋳銭』を読んだ人がほとんどいないのが現状なので、議論にならないと思う。まずはこれ(『岩手に─』)を読んでから、もう一度質問して欲しい。
(昭和九年稿の白雲居写本については、南部古銭研究会に送付してある。専門誌に連絡先が掲載してあると思うので、照会するなり足を運ぶなりして目を通すこと。)
一部については、地元収集家がボナンザ誌等に寄稿してあったと思うので資料検索すれば調べられる。
ただし、南部銭については古銭家の書いたものは多く意見を含み役に立たないので、極力、原本に近い状態のものにアプローチする必要がある。
岩手古泉会には、新渡戸資料の読解を積み重ねて来た先輩が居られたので、こちらにも照会すれば何らかの示唆を与えて貰えるかもしれぬ。
「どれが栗林銭で、どれが山内銭か」という議論に至ったのは、K村氏とO氏、収集の先輩O氏との間だけで、うちK村氏に「こうではないか」という意見を言えるようになったのは十年後だった。腹案を持たぬ問いには、昔の人は一切答えてくれない。
「そう紙に書いてある」で話を済ませられれば簡単だが、記してあることが事実とは限らぬし、存在している品が記述に結び付くかどうかも不確かだ。
「何が確からしいのか」と考える必要があるという意味がこの議論の底にある。
しかしま、きちんと「どれが確からしいのか」を考えつつ読んだ人には、これまで会ったことが無い。このため、掲示資料についても口頭で詳述することは無かった。
「聞く耳の無いところに音は存在しない」から、いくら説明しても砂地にしみこむ水のように消えて行くだけ。
さて、様々な視角から眺めて初めて理解できる一例が「楢山佐渡」と鋳銭の関りだ。
藩主の親戚だから、楢山一族は、代々、家老職を務めている。「銅山方」も必ず経由する職歴で、それが尾去沢との繋がりになった。佐渡の父帯刀は割と早くに卒するが、そのためもあり、楢山佐渡は三十を過ぎたところで家老職に任ぜられた。
文政・天保と長引いた飢饉の後でもあり、財政は窮乏を極めている。
そこで他藩から漏れ伝えて来る銭の密造を企画することになるわけだが、贋金づくりは天下の大罪だ。
年寄りはさっさと逃げ出し、まだ青年の佐渡に面倒ごとを押し付ける格好になった。
佐渡の所領は一戸楢山だ。
そこで、「浄法寺山内には一戸商人が物資を納入していた」ことに繋がって来る。
現実に一戸の酒屋から未使用の山内天保が百枚余見つかっている。
ちなみに、銭種の内訳は大字・小字と数枚の本座写しだが、全く使われていないものだった。
O氏がそれを買い取ったのだが、大半を中央で売却し、残りの幾枚かが旧店舗の箪笥に仕舞ってあった。これは金色を見るだけで、この時のものと判別出来る。
さて、当地の郷土史には「楢山佐渡が当百錢を私鋳した」という口碑が残っている。
ここでは、あくまで「佐渡個人が行なった」という扱いになる。
ただし、慶応三年の途中まで、佐渡は家老職にあったのだが、秋になり急遽、「心身の不調」により、川井村で静養した。
(「川井」という地名は、殆どの地域にあるので、私は長らく一戸町の川井だと思っていた。)
だが、この川井村は下閉伊郡の川井のことで今の岩手県央に位置している。
佐渡は慶応四年に復職するが、この休んでいた期間が「山内で当百錢を密造していた」期間に正確に一致する。
これで総ての状況が繋がった。
当百錢の密造は盛岡藩によるもので、それがあったから尾去沢の産銅を活用することが出来た。またそれを指揮していたのが楢山佐渡だったので、自領の商人に関わらせたわけだ。
さらに、もしそれが露見して、咎めを受けることになった場合は、なるべく現場の者に処罰範囲を留めるために、佐渡を一時的に移封し、また佐渡に行き着いた場合でもそこで「私的な企て」と見なされるよう、二重三重に配慮を加えていた。
藩が関わったとなれば、「取り潰し」になり兼ねぬ案件だから、当たり前の計らいだった。腹を切るのは、青年家老の佐渡一人ということで、何時の世でも年寄りたちは老獪だった。
戊辰戦争が集結すると、佐渡は「筆頭家老」の責を取り、斬首された。
こういうことは「手の上の銭」を幾ら眺めても答えの出ぬ話だ。
脚を使って資料を集め、見学して回るしか方法はない。
だが、ひとつ繋がりが見えれば、「何故こう言うつくりになったのか」が見えて来る。
南部天保に関連し、唯一、「どうやら事実のようだ」と認められるのは、栗林座における銅山銭と天保銭の関りだ。
・最初は銅山銭と天保銭の極印を別々に打ったこと。
・六出星極印が銅山銭用、桐極印が天保銭用で、各々、四五本。
・後には、区別なく打つようになったこと。
ここ記述に合致するのは、銅山銭と天保銭の双方に桐極印でない極印が打たれたものがあることだ。(当初より、これが六出星極印と認識されていた。)
現実に「小字」と分類される銭種には、六出星極印が打たれたものがある。
また、私は見られなかったが、「中字(銅山手)」にも数例ほどこの極印があるとされている。
要するに、盛岡銅山銭と中字、小字は同一箇所(概ね栗林銭座)で作られたものがある、ということだ。
もちろん、その銭種の総てがということではない。
南部地方では、良質の鋳砂(硅砂)が得られなかったので、出来栄えを良くする方法に苦心し、まずは役人を水戸藩に送り、指導を受け資材の調達を図っている。概ね栗林に反映されたようで、栗林には当四「仰寶大字」「広穿」という固有銭種がある。
さらには、その栗林から山内座が助言を受けたようで、栗林銭の母銭が山内座でも利用されている。交流があり伝播が生じたとなると、銭種をもってそれだけで何かを語ることは出来なくなる。
もう一度記すが、「錢種云々をもって説明が可能になるほど、南部銭は甘くない」。
いつも「分類手法など南部では役に立たない」と記すのは、こういう意味だ。
答えになったかどうかは分からぬが、要点は「まずは原典を読んでから」に帰結する。古銭解説書の「南部銭」関連の多くは「劣化コピー」に過ぎぬので、鵜呑みにしないこと。
ま、酷いもんだ。原典を読んでいないのだから当たり前だが、それで論評できている(当然、皮肉だ)。
注記)いつも通り、一発殴り書きで推敲や校正をしない。記憶のみで記して居り、幾つか不首尾はあると思うので念のため。
最近、高校の先輩のK村さんに似て来たのか、あるいはただ単に「死にかけ」になって来たのか、表現が辛らつになって行く。