日刊早坂ノボル新聞

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◎「黒いひと」の呪縛から完全に逃れ出る (三月三十日)

◎「黒いひと」の呪縛から完全に逃れ出る (三月三十日)

 暫くの間は厳重警戒態勢を保つことにしているので、病院の帰りに神社に参拝した。

 社務所のガラス窓に自身の姿を映して見ると、「黒いひと」の影はすっかり消えていた。

 これならまあ大丈夫。

 こういうことが分かるようになったのも、猫のトラと二人三脚で修行を積んだ成果かもしれん。

 難点は、説明しても分かる者がいないという点だけ。

 ま、他者の理解は必要ない。

 なるべく死を遠ざけようとしているのは、死ぬことを怖れているのではなく、死んだ後の自分が変貌する姿を怖れているということだ。

 今のところ、私は死ぬと悪縁(霊)になり、渡し船の船頭役になるか、あるいは生者をあの世に連れて来る役割を務めると思う。既に亡者たちがすぐ後ろにいるので、あの世のガイド役を務めるのは構わぬわけだが、「誰かの指を操って核ミサイルの発射ボタンを押させる」みたいなことはやりたくない。

 いずれにせよ、死後もこの世に出て来られるとは思う。

 

 令和元年頃に「亡者の群れ」の先頭に追い付かれたようなので、背後に影が出るのは当たり前のことだった。多くは私に害をなす存在ではないのだが、「黒いひと」のように脈絡なくあの世に連れ去ろうとする者も混じっている。

 

 直近の危機は去ったが、この日の画像は割と訓練していない人でも分かりよいかもしれん。

 神社やお寺の周りには、常日頃から幽霊たちが出入りしているのだが、私のように波長を合わせやすい・合いやすい者が撮影すると、何がしかの人影が写る。

 冒頭の画像では左側に参拝客、中央に私が写っているが、これらが生身の人間だ。

 私の右後方、手水場の柱の傍に白っぽいものが見える人がいると思うが、これはスカートを穿いた女性だ。前後に子ども二人がいるのだが、左が兄で右が妹だ。

 生前に母子で神社に来たことがあるので、死後にも来たのだが、子どもたちの方は母親の心が生み出した造影かもしれぬ。あの世では「思い描いたもの」がかたちになる。

 禍々しい心を抱えたままだと、外見も次第に醜く変化していく。

 私の周囲には黒い「蛇のような煙の筋」があるのだが、これは実際に蛇状の化け物で、先に人間か獣の頭がついている。元は人間だったが、死んでも妬みやそねみの心を持っており、似たような魂が同化合体して強化されたので、こんな姿に変わった。蛇にそっくりなので、これを「人首大蛇」と呼んでいる。

 あの世にいる異形の者たちについては、これまでにも様々なパターンを撮影して来た。

 追加した令和元年の画像は、蜘蛛の手足を持つ狼頭の化け物だ。

 俄かには信じ難いのだが、「心の有り様によって姿かたちが変わる」と理解すれば簡単だ。

 生きている者は、外見だけでは心の内が分かりにくいが、あの世の者は心の内を隠すことが出来ない。悪心を持つ者は、如何にも悪そうな顔をしているから、むしろ生きた人間よりよほど分かりよい。

 

 こういうのがやたら増えたのが令和元年で、「この頃に亡者に追い付かれた」という話は状況的にぴたりと一致している。既に大勢が真後ろにおり、手の届くところにいるので、常日頃からその気配を感じながら暮らしている。

 いつでも背後に誰かがいるような気配を感じるし、カサコソと囁くような声も聞こえる。

 不快なこと極まりないが、幾らかは利点もある。

 それは今回のように、周囲の幽霊たちの様子から、自分自身に「生死にかかわる危機」が来ていることを予知出来る点だ。

 もし「黒いひと」が近くに来たなら、まずは取るもさておき遠ざかることが大切だ。

 人間の姿をした「お迎え」には、対話が通じるが、「黒いひと」にはそんな雰囲気が微塵も無い。

 道端に立っていても影響は無いが、とにかくコイツに「抱き付かれぬようにする」ことが肝要だ。

 

 人によっては役に立つ可能性があるので、「黒いひと」(影響のない)の姿を添付して置く。

 この日は神社の境内には私一人で、遠めから望遠で撮影したのだが、ガラス面の前に実体の無い影だけが映っていた。(ガラス面ではなく、ガラスの前だ。)

 「コイツは何だろう」「なぜここにいるのか」などと考えつつ、頭の付近を注視していたら、色んなところで似たようなヤツを目視で見付けられるようになった。

 多くは夕方の薄暗い道路端にひっそりと立っている。

 

 体が軽くなったので、少しく境内の桜を見物した。

 花弁が盛んに舞っており、そろそろ桜の季節が終わりを迎える。

 

追記1)三十日の画像で、目視確認が出来る者と言う意味では、私自身のシルエットが分かりよい。私の両大腿の背後にスカート状のものが見えるわけだが、私は腰までのジャンパーを着ているので、コートなどではない。

 背中にぴったりくっつくように女が立っており、その女のスカートの裾が見えているということだ。

 こういうのは、誰の身にも日常的にも起きていることで、平常心を保っているのであれば、特に大きな影響はない。幽霊は心境が自分と似ている者に寄り添うように立つ。

 

 あの世と関りの薄い者なら、総ては「コイツ(私)の妄想から出たもので、単なるまやかし」と思えばよい。あの世は「思い描いたものがかたちになり、想像と現実の区別がつかぬ」世界だ。心象は、すなわち現実と同じ意味を持つ。

 これは、実際にあの世に触れた者でないと理解しがたいと思う。

 

追記2)冒頭の「母親」の自我(自意識)は既に朧気で、じきに他の幽霊に吸収されるか、崩壊(自然消滅)する。弱い存在だから姿が朧気になる。子どもたちが命の痕跡を感じさせぬのは、この母親が思い描いたイメージ、すなわち執着心がかたちになったからではないかと思う。

 要するに、小さい子どもたちを残して死んで、愛情が執着心に変じて残っていた。

 哀れな話なのだが、自意識自体は時間の経過と共に崩壊して行く。