◎「蜘蛛の糸」を捉える
飯能の観音寺を出て、帰路に着いたのだが、途中にはトラの神社がある。
一年で百五十日はこの神社に参拝している年があったが、昨年よりかなり減っているので、こちらにも参拝することにした。
昨年一年は重い「障り」に苦しめられたので、外出自体を控えている期間が長かったし、その後はセルフチェックを八幡さま亜で行うことにしたので、参拝回数が減ったのだ。
一時は平地を三十㍍も歩けぬ状態だったのを、トラに救って貰ったのだから、感謝の気持ちを忘れてはならない。行ける時には必ず参拝するのが筋だ。
だが、「黒いひと」の縛りが緩くなったので、少し気を許したところがあったのかもしれぬ。神社の周辺には、必ず不浄の者が屯しているので、私のような者がぼけっと出入りすると、その手のを拾ってしまうことになりかねない。
実際、この神社の鳥居の下で、「頭に蜘蛛の糸がかかる」感触を得たことが幾度かある。
この「蜘蛛の糸がかかる」体感が、まさに「幽霊が寄り憑く」時の感覚だ。これは一昨年前に、稲荷村社の前に立った時に初めて自覚したのだが、人生の各場面において時々経験して来たことだった。
簡単に言えば、理由なく頭に蜘蛛の巣がかかったような感触があった時には、それは「幽霊が寄り憑いている」状況を示すもので、いわゆる「憑依される」瞬間の体感を指す。
この日は、頭の中が「黒いひと」で占められていたので、他の考えが及ばず、油断していたが、やはり隙があったようだ。
私自身のセルフチェック画像には、頭の上から顎に下にかけて、「蜘蛛の糸」状の煙の糸が写っていた。
車の中でこれを確認し、「これがあの感触の原因」だと思い当たった。
体感的にも「蜘蛛の糸」なのだが、実体も「蜘蛛の糸」のようなものだったか。
これとは別に、境内を太い「稲妻」のような光が走ることがあるのだが、たぶん、それとも関係していると思う。「蜘蛛の糸」が強力になったものが「稲妻」なのではないか。
「蜘蛛の糸」が頭にかかるのは「寄り憑き」なのだが、いざかかってしまうと、それがどういう相手なのかが何となく分かる。
稲荷の祠の前では「僧侶」だったし、前回、この神社の鳥居下で同じ感覚を得た時には「女」だと分かった。そして、数日後に八幡さまの前に立つと、私の背後に「膝丈のスカートの女が寄り掛かっている」様子が画像に残った。
総ては関連しており、きっちりと理屈が通っている。
ここで思わずため息を吐いた。
「ということは、せっかく『黒いひと』の呪縛がほどけたかと思ったら、すぐに別の幽霊に乗られたかもしれんということじゃないか」
あーあ。
だが、ここで思い直した。
「どんな幽霊(女だ)でも、『黒いひと』より怖ろしい者はいない」から、普通の幽霊ならどうということもなし。すぐさま連れ去られることはない。
それなら、これまで通りのご供養で乗り越えられる。
とりあえず、「あの世(幽界)」の一端を示す「幽霊の蜘蛛の糸」の姿を捉えたのだから、また一歩、実証に近づいたということだ。
「幽界」は、見えにくく認識しにくいが、物理的な存在であって、精神だけではない。
残念なお知らせだが、どうやら天国は無く、神様もいないようだ。
その代わり、悪縁(魔)はいるし、地獄は「この世」にも「幽界」にもある。ひとの心の中の邪な欲望が創り出すものが地獄だ。
どうやら「真・善・美」は与えられるものではなく、創り出すもののようだ。
「あの世」解明に向けての先はまだ長い。「黒いひと」に捕まらぬように、寿命をやりくりして行く必要がある。