日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎「ようやく悪意が消える」

「黒いひと」の一例。はっきりした自我を持たず、感情だけの存在だ。

「ようやく悪意が消える」

 十四日の午前三時頃のこと。

 私は居間の竹茣蓙の上で眠っていたが、不意に体を起こした。

 仰向けに寝ていたが、半身を起こすその瞬間までは、体を起こしたのが「私」だと思っていた。

 今の今まで「自分が体を起こした」と思っていたのに、起き上がった直後には、私はまで仰向けに寝ていた。

 ここでようやく、「何者かに入られていた」ことに気付く。

 

 「黒いひと」は幽霊の一種だが、自我の希薄な存在だ。

 心(多くは悪意)はあるが、それを繋ぐ自我がほとんどない。

 このため、悪縁(霊)が心の中に入り込む時の自覚症状がほとんど現れない。

 相手が気付かぬうちに心の中に入り込み、心を支配してしまう。

 

 悪縁(霊)が取りつく時の自覚症状については、概ね分かっている。

 昨年の秋に、日高の村社の傍で悪縁(霊)に取り憑かれる経過を自覚したが、体感症状もあった。

 「蜘蛛の巣が頭に掛かる」感触だ。

 私自身は「蜘蛛の巣」だと思うから手で払い除けよとするが、しかし、蜘蛛の糸などは存在しない。感触だけ。

 あれが、「幽霊が生きた人間に憑依する瞬間」だ。

 その後の経過は、繰り返しブログやSNSに記した。

 

 幽霊(悪縁)の場合、自我が残っているから、割合、自他の区別がつきやすい。

 幾ら心の中に入り込まれても、別の「心格(「人格」だが、体が無いので言い換えるもの)」だから、それが普段の自分と離れていればそれと分かる。

 だが、悪意だけの場合、怒りを増幅させるだけなので、自覚するのは難しい。

 

 自分の体についてチェックするのと同様に、心や魂の状況を点検する必要があるようだ。

 肉体が弱っていると、防護壁が薄くなり、悪縁(霊)に入り込まれやすくなる。

 この数日は、怒りで我を忘れる状態だったし、またこの先に何の希望も持てぬ心境だった。

 まさに「悍ましい心」に支配されていたわけだが、「それは自分本来のものではない」と自覚出来れば、分離が可能だ。

 理屈が分かれば、お経や祝詞など、念の力に頼ることは必要ではなくなる。

 

 今回はいつもにもまして危なかった。

 危うく、気に入らぬ者を呪ってしまうところだった。

 気が付いた時には、「自分も酷い悪縁になっていた」みたいなことが起きていたかもしれぬ。

 

 添付の画像は「影だけの幽霊」の一例。心の断片しか持っていないようで、心格(人格)はない。

 一週間ほど、怖ろしいほどの悪意を撒き散らしたが、今は平静に戻っている。

 若い頃に霊感教会のO先生に、「若いうちから修行に入ればよかったのに」「入らなくてはならなかった」と言われたが、障りが頻繁に降りかかるという意味だったようだ。

 実際、「次から次へと」の状態なので、O先生の言葉が今は納得出来る。