日刊早坂ノボル新聞

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◎時間が経過して初めて分かることもある

令和二年十一月二十三日撮影

◎時間が経過して初めて分かることもある

 昨日、再掲した二年前の画像について、再発見したことを記す。

 これを撮影した時、数々の「異変が写っている」ことは、撮影直後に駐車場の車の中でそれと分かった。

 強く目を引いたのは、男性にしがみつく女の姿なのだが、しかし、当初はその女ではなく、前に立つ少女を先に発見した。

 理由は簡単で「助けて・・・」と言われているような気がしたからだ。

 外出した折に、人気のない場所にいるのに、「助けて」と呼び掛けられることが時々ある。(正確には「時々」ではなく「しょっちゅう」だ。)

 

 この時は「ああ。また助けを求められている」と解釈した。

 その次に、少女の背後に視線を向けると、男性の頭の後ろにしがみつく「女」の姿が見えて来た。

 こちらは、見るからに悪縁(霊)だ。もちろん、映画や小説とは違い、物理的な障りをもたらすというより、心に「邪な気持ちを吹き込む」ことの方が多い。男性が物事を「悪意で受け止めるように」圧力を掛ける。

 悪縁の目的は、自身の自我を強化するために、他の幽霊を取り込んだり、人の心に入り込むことだ。そのことで、自我を強く保ち、幽霊として生き永らえることが出来る。

 これらの状況から、私は「少女は、この境内に集まっている女の悪縁たちに食われようとしているので、私に助けを求めている」と解釈した。

 少女の表情は、何事かを訴えようとしているように見える。

 

 だが、どうやらその解釈は違っていたようだ。

 私に「助けて・ください」と請うていたのではなく、「助けて・あげる」と言っていたように、今は思える。

 男性の背後の「女」は、ガラスに映る私のことを見ている。

 心停止の経験をしてからは、私はどうやら「あの世(幽界)」の側から見られやすくなっているらしく、行く先々で幽霊が私に目を留める。

 少女はその視線の中間に立って遮り、何かを訴えていた。

 世間てよく言う「守護霊」みたいなものは実際には存在しないのだが、仲間のような存在はあるようだ。自ら手を出してひとを助けたりはしないが、助言をしてくれる。

 本当の立場は、当時私の考えていたものとは、すっかり逆だったかもしれぬ。

 

 そう言えば、何年か前に岩手の御堂観音を近くを通ろうとした時に、「ここにお参りして行けば治るよ」と言われたことがある。ちょうど持病の筋膜種がい痛み出した時で、いずれかの場所で休もうとしていた時だったので、神社に立ち寄り、北上川の源泉を飲んだ。すると、すぐに痛みが消え、数か月後には脾臓と胆嚢の腫瘍自体が消失した。

 よく思い出すと、その時の「声」と、一昨年の「助けて・・・」は同じ声のような気がする。もしそれが正しいなら、今はひたすら感謝の言葉しか浮かんで来ない。

 何せ、数々の危機を経験しているのに、まだ生きているし、立って歩いている。もちろん、ヨレヨレなのだが、ひとまず通院で済み、入院などは暫くの間していない。

 

 追加画像は、同日撮影のひとつ前のものだ。

 黒づくめの装束を身にまとった「女」が姿を現している。

 今見ると、男性の背後の「女」と顔かたちが酷似している。

 

追記)イリスと黄色い花

 「黄色い花」は「魂」みたいなもので、この場所にはそれと見紛うものはない。この画像の中だけにある。

 「ショールの女」は、女の幽霊二人分を回収したが、最初はその二人の顔が見えていたのに、程なく完全消失した。その幽霊たちを吸収して、自分の自我に取り込んだらしい。

 額の生え際が男性の後ろの女と同じなので、同じ女である可能性がある。

 

 これまで色んな先人(宗教家など)があの世について様々なことを語って来たが、実態はちょっと違うようだ。

 幽霊自身が語ることは曖昧で、受け取り方によって様々な解釈が出来る。その中には嘘や願望がかなり混じっているから、言葉を鵜呑みにすると騙される。

 あの世には社会性が無く、このため秩序らしきものも薄い。おそらく共通理解そのものが存在しない。バラバラの「自我」が「ふっ散らかっている」状態だ。

 個人の心(主観)がそのまま表に現れるから、生前とはまったく別の人格になっている。ひとの心根は欲望で出来ているから、幽霊の大半は怖ろし気な表情をしている。

 これはライオンがライオンの、ハイエナがハイエナの顔をしているのと同じで、本性がそういうものだということだ。善悪の問題ではない。

 

 魂(または霊性)は、「生起消滅を繰り返す過程」のひとつなので、生前のこだわりを捨てて「先に進め」という教えは正しい。総ての存在(いのち)は、プロセスの一局面に過ぎない。