日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎見えぬ者を探す

見えぬ者を探す

 昨年の秋に、稲荷村社の周りで悪縁(世間的には「悪霊」)に乗られたのだが、それから十か月以上、障りに苦しめられた。

 声が聞こえれば姿も見える。体は激やせの一途だ。気が付いたら十二キロ痩せていた。

 もっとも厳しかったのは三月頃で、アレルギーから気管支炎に至り、加えてワクチンの副反応が重なった。呼吸が困難になり、酸素吸入が必要になった。

 医師・看護師は口々に「心臓の治療を受けろ」と言う。

 だが、障りの本番はその治療で、カテーテルを心臓に挿入した時こそが悪縁が本性を剥き出す時だ。

 さすがに習練の賜物で、そういう「何かの意志」が働いている時はそれと分かる。

 そもそも私は心臓病のベテラン患者だから、この不調が心臓由来で無いことくらいは体感的に感じる。血圧が平常のままということは有り得ない。

 五月頃に、深夜何者かが「舌打ちをしながら去った」と言う出来事があり、それ以降は少し楽になった。ま、いなくなったわけではないし、入れ代わり立ち代わり別のが来るから、気を抜く暇がない。

 

 改めてどの段階で、どういう取り憑き方をしていたのかを探るために、過去一年の即席を再チェックすることにした。

 稲荷の村社で起きたことは、これまで幾度も記して来たから、簡単に留める。

 1)頭に「蜘蛛の巣がかかる」感覚を覚える。

 2)肩から頭にかけて、ずっしりと重くなる。

 これが始まりだった。

 あとは画像には残るし、行く先々で声が聞こえる。これはその時始まったことではないが、従前より一層激しくなった。

 

 画像は昨年の十一月のものだ。

 既に悪縁に乗られた後のものだと思うが、前後していてもあまり関係はない。

 神無月には、「あの世」的異変が数多く発生する。

 当時は気付かなかったが、最初の画像のトーンを強調し、陰影を鮮明にすると、中央に坊主頭の男の顔が出ている。

 これは稲荷村社の画像にも出ていたから、そこで拾った悪縁(のひとつ)だと思う。

 稲荷の画像にも、オレンジ色の僧侶の顔が出ているものがあったが、その顔は程なく消失した。

 あまり見られたくないものらしい。

 僧侶はすぐ近くの寺に関係した者で、部屋住みで一生を送ったものだ。

 寺の後を継げず、かといって別の地に赴くことをしないまま、悶々と暮らし、そのまま亡くなった。

 成仏出来ずにあの地を徘徊していたところに、私が飛び込んだ。

 こういうのは、顔を見ると何となく分かる。

 それなりに修行を積んでいるし、死後に別の者を取り込んだりするから、僧侶や神職の幽霊は凄く性質が悪くなっていることがある。

 この僧侶も複数の悪縁を抱えており、幽霊や人の魂を食らうようになっている。

 

 二枚目は別の人に関わるものだが、たまたま発見した。

 「あの世(幽界)」は、人間の可視域の境界線を跨って存在しているから、普段、目視することは殆どない。それが、光の量や質(波長)に変化を与えたり、カメラなど捕捉範囲の広い装置を使ったりすることで、見えぬ筈のものが見えるようになる。

 右側の女性の後ろ、正確には我々の後ろには、わやわやと幽霊たちが蠢いていて、別の幽霊や人の魂を物色している。

 女性のすぐ後ろには、男が迫っており、「果たしてこの女は役に立つかどうか」を計っている。

 こういうのは、この女性だけにたまたま起きたことではなく、日常的に、誰の身にも起きている。

 生きた人間が幽霊を認識し難いように、幽霊の側でも人間を認識するのは面倒なようで、「心の動き」で感知する他に手段がない。

 心中に喜怒哀楽の感情の揺れを抱えており、それが幽霊の持つそれと同じような内容であれば、共振現象のように、相手を察知するようだ。

 幽霊の多くは、怒りや恨みなどの負の感情を抱え、それを自我の核にしている。

 

 幽霊のことなど塵ほども考えず、怖れも感じない。日常をポジティブに、あるいは呑気に暮らしている人については、幽霊は何もせずスルーするようだ。これは、存在を知り得ぬことから来ている。

 「気にしない人のところに幽霊は出ない」というのは、ある意味、事情は違うが事実のようだ。

 

 私のように、「そこにいると悟る者」、「つい見てしまう者」、「目が合ってしまう者」には、幽霊が大挙して集まって来る。彼らの心の中は人間と同じで、「自分を見て欲しい」し、「自分のことを知って欲しい」「理解して欲しい」と思うし、最後は「自分と一体になって欲しい」と願う。

 こういうのを避けるには、兆しの段階からいち早く存在を悟り、傍に近付けぬための手立てを打って行く外に道はない。

 目には見え難くとも、「何者かの存在」「何者かの意志」を見通す姿勢が重要だ。

 

 この一年の私のように、「障りに苦しめられる」ところまでいくケースは稀だ。

 私は毎日、「あの世」のことを考え、どう向き合うかを考えている。

 毎日稽古している相撲取りと一緒で、番付表の位置が高くなっているから、取り組む相手も強い者になる。

 ガラス戸の合わせ目を「左から右」「右から左」と向きを替えて接合すると、左右のガラスに映っている景色が異なることが分かる。

 反射光の角度によって、目に見えるものに影響があるということだ。