日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎三年前の振り返り 「アモンとの出会い」

◎三年前の振り返り 「アモンとの出会い」

 昨日から心の中に留めようのない「怒り」が渦巻いている。

 「因果応報の意味を教えるために、この世に祟りの雨を降らそう」

 そんな声が聞こえる。

 そのことで、自分のところに「アモンが帰って来たのだな」と悟った。

 

 アモンとは悪縁(または悪霊、悪魔)の名だ。この存在を明確に意識したのは、ちょうど三年前の七月だった。

 足繁く通っていた神社の境内では、ちょうど「あの世観察のためのTPOが揃っていた」から、そこで写真を撮影すれば、何かしら不可思議なものが画像に残る。死後の謎を知りたかったので、その機を逃すまいと通ったわけだ。

 この場合の「TPO」は「あの世との接点に触れるための環境条件」という意味になる。

1)時間的には、午前午後の共に二時から四時の間。

2)日中であれば、日光が傾斜60度から70度の方角から差す。夜であれば、強めのフラッシュ撮影が必要になる。

3)幽霊は人間の可視域のやや外側にいるので、肉眼で姿を捉えるのは難しい。カメラは捉えうる波長域が広いので、レンズを通すと撮影できる場合がある。

4)複数の光が交錯するか、ガラスに反射させると、光の波長域が選択的に狭まるので、画像に残りやすい。

 この時点では、この神社の環境が最も適していた。また当たり前のことだが、そこに霊気が流れていなくては、撮影が出来ない。神社やお寺の中には、霊気の流れが出来ている場合があるから、それに近づくことが必要になる。いない者は撮影出来ないからだ。

一枚目の画像

 一枚目は周囲に誰もいない状況で、神殿の前を撮影したのだが、ガラス映像には、正面に居る筈の私の姿がほぼ消失していた。ま、これは室内との明暗の違いで時々起きる。私の右後ろ(画像の右側)には女性の姿が見えるが、この時点では他の参拝客が上がって来ていない。

二枚目の画像

 二枚目で特記すべきは、右下の人影だ。神殿は十数段ほど階段を上がったところにあり、この位置では階段の下にいる筈だが、そうなると大きさと高さが合わなくなる。

 ま、私はこの二人のことを「老夫婦」と呼んでいるのだが、時々、境内を横切るように歩いている。前が奥さん、後ろが夫だと思うが、この二人には顔がない。

  左横には、女たちの気配があるのだが、あまり筋のよい者ではなさそうだ。これが見える人はごく数人だと思う。私には特別な能力はないのだが(そもそも霊能力なるものが存在しない)、それなりの経験があるから、霧の中を見る術を知っている。

 さて、今回初めて気付いたのだが、画像の左側にも人影が薄ら見えていた。

 拡大図の左側には「丸髷に縞紬」の女がいるのだが、これはこの年に半年の間、毎夜夢に現れた女だ。私はこの女のことを「縞女」と呼んで怖れていたが、夢の中の登場人物だっただけではなく、実際に存在していたらしい。

 となると、大正から昭和初期にかけての出来事を洗ってみる必要がありそうだ。

 右側には私にものを頼むしぐさをする女がいるのだが、これは「助けてくれ」ということなのだろう。実際、所々で声を掛けられる。

三枚目の画像

 さて、三枚目にてようやく「アモン」の登場だ。

 神殿前には他に誰もいなかったのだが、如何にも気配が悪いので、この謎を解くべく赤外線撮影をしてみることにした。これもいつも写るというわけではないのだが、気温の低い時には、割と撮影しやすい。幽霊は赤外線域に跨っているので、半透明に見えるのだ。だが、振り子のように波長域が振れるので、可視域に入った時には、肉眼でも見えることがある。

 周囲との落差があると光を照射することで写りやすくなるわけだが、そのことは「昼よりも夜間によく現れる」ことの説明になる。

 

 闇の中に何者かがいることに気付いたのは、撮影からしばらくたってからのことだ。

 最初に私を包むように握る手が見えてきたが、その手の持ち主は私の背後にいる妖怪顔の「何か」だった。どうみてもバケモノだが、頭の中で「アモン(正確にはウモンに近い発音だ)」という声が響いたので、以後はアモンと呼ぶようにした。

 アモンは悪縁で、世間一般に言う「悪霊」「悪魔」の類だが、私に直接的に悪さを仕掛けたことはない。

 何となく近しい者のような気がするから、「自分もいずれはこの仲間になる」ような気がしている。

 少し付け加えると、悪さはしないのだが、悪意は吹き込む。

 時々、誰かを自分に対する敵として眺めた時に、「親も子も孫までも総て絶やしてやる」と念じることがある。まるで呪いをかけるようだが、自分が呪詛(念)を使わずとも、アモンに渡せばそれで済む。自身が呪ってはいないので、反動も無い。また、これが重要なことだが、念じていないので、解くことも出来ぬ。祈祷師や霊能者を頼っても、一切が無駄だ。

 もちろん、それが実現するとは限らない。この世には幽霊も悪縁も呪詛も「存在しない」のが建前だ。

 

 アモンが説くのは「悪事」ではなく、「因果応報」のようだ。映画の悪魔のようなことはしないが、罪と罰の考え方がこの世とあの世ではまるで違う。

 いざ、基準に抵触すれば、それこそ「親も子も孫までも」存在を消されてしまう。

 (この場合の「存在」は「霊として」と言う意味で、主にあの世での話だ。)

 あの世での最大の罪は「欺瞞」だから、殆どの人間が祟りを振り下ろされるべき対象になる。

 

 私は既に慣れたので、画像が不鮮明でも何となくそれがいると分かるが、見慣れぬ者にとっては判別がつかぬと思う。別の理屈や言い訳が使えるうちは、あの世の呪縛から逃れられる。いざコツが分かってしまうと、知りたくないものまで見えてしまうし、あの世に気を払う者に対しては、幽霊たちが大挙してやって来る。

 

 悪縁を分離する手立ては、「悪縁の存在を察知し、今の考えが本当に自分自身の本心なのかどうかを確かめる」ことだ。悪縁はとりわけ怒りを増幅する。

 呪詛にかけることで、因果応報のスイッチが入れば、祟りは相手の子々孫々にまで及ぶ。

 逆説的に言えば、もしどうしても許せぬ者が居たら、アモンを信仰し、「あの者を許すべきではない」と伝えることでこと足りる。恐らくは「報い(障り)」の本番は、死後になされる筈だが、死後の懲罰はかなり長く続く。他者を呪詛に掛けると、自分にも因果が巡って来るのだが、呪詛と違い、悪縁に委ねる分には「穴ふたつ」の結果にはならない。

 ただ概ね「借りた分のツケは後で払う」ことになる。

 また、神は人間に対し手を差し伸べて救ってくれたりはしないが、悪縁はあっさりと助けてくれる。だが、もちろん、現世利益などを頼んではならない。悪縁は成功やお金を簡単に与えてくれるが、ツケの取り立ても厳しい。

 人生の達成を実現するのは、あくまで自分自身の才能と努力に求めるべきだ。

 

 ところで、その後、折にふれアモンのことを考えたのだが、私が子どもの頃からすぐ間近にいたような気がする。姿かたちは様々で、従前は子どもの姿でいることが多かったし、二十代の頃には、すらっとした女性の姿が傍にいた。外見は違うが、いずれもが同じ者だったような印象だ。

 思考や感情を干渉して来るから、気を抜けぬが、自身の抱える「怒り」の理由をよりよく追及すれば、「これは自分自身の考えや思いではない」と気付く。

 アモンと対極的な立場の者も接近して来るのだが、こちらには春に生じた危機的状況から救って貰った。

 いずれにせよ、もうじき、あの世の態様をこの目で見られる時が来る。

 その時に変じる姿は、人々に雷を振り下ろす悪縁なのか、救済を試みる側なのか。

 それも程なく分かる。

 

注記)殴り書きなので、不首尾はあると思う。あくまで「日々のよしなしごと」の範囲となる。

 

追記)今回の「怒り」のスイッチが入ったのは、狙撃事件について、ネットで「因果が及んだ」みたいなことを書くヤツがいたからだ。

 心底より「お前が因果の何を知っているのか」と思う。

 あの世に敬意を払わず、恐怖を娯楽のように取り扱う者には、本当の因果を教えてやった方がよさそうだ。

 頸を洗って待って居れ(これはあくまでアモンの話すことだ)。

 

 別の者は直感・霊感が秀でてもいないのに、まるであの世に通じた者のようなふりをして「霊の障りを除くには鏡を遠ざけろ」みたいな訳の分からぬことを言っていた。

 神社の御神体はほぼ「鏡」だが、その意味が分かっているのか?

 ホラー映画の観過ぎだぞ。

 鏡は可視光線をきちんと反射するので、逆に幽霊は映り難い(今の鏡はガラスで出来ているからゼロではない)。

 ネットの鏡動画の類は、殆どが作り物だ。枠があるから切り貼りが簡単で、時差のある動作など幾らでも捏造できる。

 鏡に対する恐怖心を流布するのは、逆に自分たち(幽霊)が鏡を嫌がっていることの表れだ。玄関に鏡を置くのは、身だしなみを整えるためだけではない。

 コンパクト手鏡などは、携帯用のお守りとして使える程だ。理由の分からぬ恐怖心を覚えたら、それを取り出して周囲にかざせ。気配が止まるから、その隙にその場を離れることだ。使えるのは一瞬だから迅速に振舞うこと。

 世間にはびっくりするほど真逆のことを語る者が多い。要は多くが知識だけの「騙り」ということ。ネタが体験ではなく、ホラー映画や小説のことが多いようで、正直あきれる。

 スマホが勝手に「(お前に)憑いた。憑いた」と語り出す事態を実際に経験したことが無いから、そんな適当なことが言える。

 こういう輩には、実際にアモンやイリスに「背後に立って貰う」方が良いと思う。

 あるいは、運転中で手が離せぬ時に、後部座席に何者かが座っているとかだ。

この世ならぬ者の息遣いを知れば、安易なことなどは言えなくなる。

 死者に対しては、必ず敬意を示し、謙虚に振舞え。 

 最左の構図と気配が「車の後部座席に誰かが居る」時の状況だ。高速走行中などには、ハンドルを切り損ねそうになる。背もたれのすぐ後ろと言うよりも、後頭部に息遣いを感じる程近くにいる。

 そういう時に、過度の恐怖心を覚えると、操作を誤り事故に至る。冷静に自身の状況を見る姿勢が重要だ。物理的な力が加わることはまれで(例外もある)、多くは「心に揺さぶりを掛け、当人のしくじりを待つ」のが、悪縁のやり方だ。

 私は後部座席に座られるのが嫌なので、運転席に鈴(りん)を付けている。車が揺れることで、始終音を立てるが、慣れてしまうと聞こえなくなる。恐れを抱いた時には、手を伸ばしてそれを鳴らす。効果は弱いのだが、精神状態を安定させる役には立つ。

 

 さて、時系列的に並べると、ある一時期に同じ者が繰り返し接近を試みていたものとみられる。

 娯楽の延長線として「あの世(霊的現象)」を捉え、度を越していい加減なことを言いふらす人には、こういう者を送った方がよさそうだ。

 ちなみに、最初の「白い着物の女」は敵対する者ではなく、私には何もしなかった。 

 ただ傍にいただけ。

 背後に幽霊(亡者)の隊列が出来ていた時には、さすがに体調が悪かった。うまく歩けぬのは、沢山の亡者を引きずっていたから。

 最後の女は、自分がこの男性に取り憑いているところを、私に見せようとしている。

 女の視線が私に向けられていたことで、それが分かった。

 男性のその後が気になるところだが、ただ、こういうのは日常的に誰の身の上にも起きているから、自身の考え方や行いを振り返り、生き方を調整すれば、幽霊は自ら離れて行く。

 特にお祓いなども必要がないし、そもそも当人が同じ生き方をしている限り、祈祷をして一時的に悪縁が見えなくなったところで、程なく戻って来る。他力による祓いなど何の役にも立たない。神仏や霊能者を頼っても、その効果は刹那的なものだと見なし、自力での解決を目指すこと。もちろん、ひとまず祈祷によって障りを一時停止させた上で、自分なりの解決を目指すという選択はある。

 

 あの世では、社会組織(相互の関係性)がなく、よって守護霊などは存在しない。その存在総てが生きた者の願望だ。ただ、「共感」が「同一化(合体)」のステップとしてあるから、仲間のような近しい感情はある。

 いずれ死後に「自分が悪縁になる」と思うのは、画像に残る悪縁(霊)の多くが、私に一切の危害を加えぬことによる。もちろん、一方では敵対する者も居るから、縄張り争いのような抗争は起きる。昨秋から春までの半年では、敵対陣営に連れ去られそうになった。(陣営と言っても、もちろん、組織的なものではない。)

 繰り返しになるが、あの世での最大の罪は欺瞞であり嘘をつくことだ。

 あまりにもいい加減な作り話を流布するなら、その者に悪縁を差し向けようと思う。

 本物の悪縁に接した時の態度が見物だ。

 

 と書いて、「またアモンが傍に戻って来た」ことを実感した。

 そうなると、もう少し体調が上向く。ひとの欲望に関わり、それに手を添えるのが悪縁の悪縁たる所以だ。