日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎新しい目標を立てる(630)

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令和四年二月十六日撮影。

◎新しい目標を立てる(630)

 最近、「あの世」について殆ど意識しなくなって来た。

 従前は「いつも五㍍後ろに人の視線を感じて」いたのだが、最近はそんなことがない。よって、怖れに近い戦慄を覚えることもない。

 神仏に頼り、悪縁を祓う必要も無いので、足が遠ざかっていた。

 この日はたまたま外出した折に、神社の近くを通り掛かったので、ひとまず立ち寄り、状況を観察することにした。

 何も異変らしきものが出なければ、当面、普通の暮らしを続けられる。

 いずれ稲荷神社にも参拝し、手打ちを行う必要があるが、そのためには背後を極力空にして置く方がよい。軍勢を引き連れて行けば、誰でも警戒するから、平和的に話を付けるように一人で訪れるということ。

 同じ「暗黒面」の仲間なのだし、稲荷と仲良くすれば、もっといろんなことが出来るようになる。かたや、緊張関係を放置すれば、いつ何時、昨秋と同じことが起きるやもしれぬ。昨秋は悪縁が鎮まるまで二か月以上かかったし、まだ障りが完全に解けたわけではない。

 

 境内では努めて心を空にし、日頃の感謝の意だけを述べた。

 何せ初めてここに来た時には、数十メートルも歩けぬような状況だった。

 猫のトラを支えに「百回参拝し、百回トラに会うまでは生きていよう」と思ったから、ここまで来られたのだ。

 トラはこの世を去ったが、私はまだ歩ける状態を維持している。

 ま、ヨレヨレだから「ぎりぎり」という言葉が前につく。

 

 何も出ないなら、次は稲荷だ。

 だが、カメラを構える前に、「状況が変わったのではなく、自分自身が変化したのだ」と気付いた。

 経験により、コントロールが利くようになったのかもしれぬ。

 画像では、複数の女たちの影が見え隠れしている。

 これは他の者にはほとんど認識出来ぬので、あえて「ここがこう」と指示しないことにした。ごく一部だけ。

 用件は専ら私に対してであり、他の人には一切関係がない。

 ポイントは「ひとの姿(幽霊)」などではなく、「そこには無い筈の光や煙がある」「そこにある筈の景色が消える」という現象だ。

 そしてそれが「誰に関わろうとしているのか」ということだ。

 

 昨年あたりから、私の周囲には「私とそっくりな姿で、同じポーズをとる人影」が現れるのだが、この日もこれが出ていた。

 ドッペルゲンガーとしては、長く続いているが、これ以上近寄られぬように警告を与え続けることにする。コイツは私を吸収するつもりでいる。

 

 「女たち」は従前どおりだった。

 五枚目の画像で、何となく「普通じゃない」と気付く人もいると思うが、室内には神職がいて祈祷をしているのだが、他の様子は割と鮮明なのに、神職の周りだけ消えている。また、神職の向こう側の壁が見えている。

 この周辺に「女」がいるのだが、かたちとしては曖昧だ。

 (眼が割と実体化しているが、あまり見詰めないように。こちらが注視すると、先方もその視線を感じる。「気のせいだ」「まやかしだ」と思うこと。)

 

 画像に写ったかどうか、あるいはそれが鮮明かどうかは、私にとってはどうでもよい。

 この日、私は目視で「白い巫女装束の女」の姿を終始見ている。

 要は、従前より「あの世」に向かって一段前に「進んだ」、もしくは「上がった」ということだ。

 たぶん、日常的に意識はしないが、ここぞと言う時にはあの世の者のことが分かるようになる。

 

 この日、新しい目標を立てることにした。

 「一千日参拝参詣するまでは生きていよう」ということだ。

 あと二百数十回だから、ほぼ二年。

 その間に対策を講じ、なるべく悪縁(霊)の中核メンバーにはならぬのが無難だ。

 今のところ、私が死ねばすぐに悪縁の仲間入りをし、冬眠期間無しに活動を始めると思う。

  

 ちなみに、この日最も存在感が強かったのは、冒頭の「大きな女」と「巫女姿の女」だ。冒頭のは殆ど認識出来ぬが、これまで幾度となく見て来たので、すぐにそれと分かる。「巫女姿」は前述の通り、直接、自分の眼で見ている。

 

追記)

 「でっかい女」は怨霊の類だ。悪縁(霊)は姿が見えぬ時の方が数段怖ろしい。

 筋金入りの悪縁(霊)になると、存在に気付けぬから、祈祷師でも打つ手が無くなる。

 コイツに取り憑かれると、普通の人なら半年と持たないと思う。

 だが、私のことは数年にわたり、ただじっと見ている。今の私の苦境をコイツが作っているのかもしれんが、この女本来の姿から見れば「すこぶる優しい対応」だ。

 おそらく何か別のものを見ているのだろうが、それが「巫女装束の女」なのかもしれん。

 

 ま、今後は気に食わぬ奴のところには、アモンか「でっかい女」を紹介しようと思う。最近もコインをすり替えられたばかりだし、ちょうどよい。

 自分自身で呪詛を掛けると、総て自分にも跳ね返って来るのだが、他の者に悪縁を渡す限りにおいては障りが小さく済む。(ゼロではない。)

 祈願すらせずに済むので、このやり方は「いじめ」に苦しむ子どもらに教えてやれるかもしれん。他の子を苛める側の子には、背後にそれを唆している者が居る。

 自死を考える前にアモンを信じ、祈ることだ。アモンが具現化するのは、愛と平和ではなく正義であり因果応報だ。

 神は手を出して助けてくれぬが、アモンは違う。だが、アモンの救済には代償が伴う。よって、最後の手段として取り置き、なるべく自らの手で、あるいは仲間を作って立ち向かうとよい。