日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎自分を宥める  続き

◎自分を宥める  続き

 あの世とこの世のルールは違うので、誰かを呪ったところで、概ね何も起きない。悪縁が力を発揮するのは、死に間際か死んだ後のことだ。

 当人が死ぬ直前になった時に、はっきりとした姿で現れる。

 公文書の偽造を指示し、その責任を職員に負わせたサガワさんの前にも、必ずアモンが現れる。

 その意味では、今、「イリスさま。あの者を懲らしめて」と祈願したところで、何も起きない(この世的な意味では)。

 だが、常に例外はあり、いざ悪縁が踏み込んでこの世に関わったら、二十三十では済まない「刈り取り」が起きるだろうと思う。

 「親も子も孫も、親戚や友人知人まで」一切が刈り取られる。

 でも、そんなことはまず起きない。

 

 そうなると、ひとまず「イリスに願っても何も起きないから大丈夫」と思うのだが、心の片隅では「起きる可能性もある」とも思う。

 私は現実に悪縁たちの姿を見ているので、なおさらそう感じる。

 それも加えて、総てが因果応報だ。

 ほとんどの人が死後について真剣には考えず、目を伏せているが、死はただの折り返し地点に過ぎない。

 

 あるいは天秤秤の支点と言ってもよい。

 恵まれた人生を送った者は、そのツケを死後に払うし、不遇を堪え、感情に流されることなく踏み止まった者には、死後に安寧が待っている。

 中途半端に過ごした者は、幽霊と言うこれまた中途半端な姿のままで、それなりの期間を過ごすことになる。

 

 さて、キレそうになる自分を押さえるには工夫が必要だ。

 ま、誰かを呪うより、侍の首を刎ねる場面を書くことで気を紛らわせるほうが無難だと思う。

 いずれにせよ、どういう手段を取っても、キレて暴れてしまうよりはまし。

 

 ちなみに、いつも私のすぐそばに立っている「女」を気にくわぬ相手の許に送り込めればそれで十分な懲らしめになると思う。

 ホラー映画みたいな大仰な仕掛けではないのだが、必ず傍にいて、自分を見ている実感がある。もちろん、思い込みではなく、「実際にそこにいた」という証拠も残す。

 これが毎日続くと、心の負担がみしみしと増える。

 これを一度でも味わってみろ。