日刊早坂ノボル新聞

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◎霊界通信 R070129 「通り道」その2

◎霊界通信 R070129 「通り道」その2

 幽霊が頻繁に交差するところが「通り道」だが、単に通るだけでなく、同時にこの世との「接点が生まれやすい」ということでもある。

 この場合、たまたまそこに「生きた者」が立つと、双方が相手の存在を感じやすくなるようだ。生者の方は「なんだかざわざわする」「妙な触感がある」などの自覚症状を覚える。幽霊の方も、普段はほぼ「自分だけの世界」「自らが思い描いた世界」の中だけで暮らしているのだが、そこで他者の存在を感じ取る。ここでの「存在」とは、もちろん、「こころ」のことだ。物的なものではない。

 そんな時に、幽霊は人の「こころ」に寄り添い、入り込もうとするが、これは生存本能のようなものだ。幽霊になってしまうと、生前のように肉体(五感)で自己の再確認をすることが出来ないから、時間の経過と共に自我が薄れて行く。

 いずれ自我の求心力を失い、断片的な感情の記憶しか残らなくなるわけだが、これは生物学的な死よりももっと怖ろしい。「自分が自分でなくなってしまう」より先の「自分が存在しなくなってしまう」ことだからっだ。

 幽霊が人に憑依する最も大きな要因は「自我の強化」だ。自分と似た「こころ」に寄り添い、それと同化しようとする。同化(一体化)することで、自我そのものが存在し続けることが出来る。

 このための手掛かりが感情で、「喜怒哀楽の起伏の波が似ている」と互いに同調しやすくなる。音や水の波と同じ理屈だ。

 一方、「こころ」を固くするのは、概ね悪意で、恨みや憎しみなどの感情は自我の強化に繋がる。肉体を失った後に「こころ」を強く持っていられるのは、多くこの悪意・負の感情を抱えていることによる。

 幽霊がとかく恐怖をもって語られるのは、それが悪意を中核として存在しているからだ。幽霊が善であることは少なく、大半が悪意を抱える存在だから、怖ろしく感じる。

 

 画像はこれまで幾度も公開して来たものだが、前回の八幡神社の「通り道」に立ち撮影したものだ。これに私以外の人影を見出せぬ者はごく少数だろう。

 私の身体の一部が消失したり、相手が私の中に入り込もうとしているように見えるのは、実際に、この女たちが私の「こころ」に入り込もうとしていることを表わしている。

 恐らく、この「通り道」で、女たちは私の存在を感じ取り、すぐに寄り添った。

 食品コーナーの試食と同じで、ひとまず乗りかかってみたが、同化出来ないと知ったのか、すぐに離れたと思う。

 絵面は恐ろしいが、世間で言われるような怖ろし気な結末にはならない。

 幽霊は「こころ」に働きかけるもので、寄り憑きの目的は「自我の存続」によるから、相手の「こころ」に合わなければ、何もしない。
 (憑依・寄り憑きにはもう一つ、「欲望の達成」という要件があるが、これは別の機会に述べる。)

 女たちは私の存在を知り、私の自我に接触した。この時に幾らか交流が生じるようで、女たちが私の「こころ」を知るのと同時に、私の方も女たちの心中を垣間見るらしい。

 女たちが見ているのは、「光の無い世界」「朝の来ぬ世界」で、いつも夜らしい。

 生きている時と似たような街があるのだが、自分と同じような人はいない。

 そこにいるのは悪意に満ちたバケモノのような悪霊たちだ。(続く)

 

追記1)私は幽霊に接触されることが多いが、これは「かつて死んだことがる」(臨死体験)ためだと思う。一旦、扉の鍵を開けると、その後は出入りが容易になるのと同じ。また、ほぼ死期に到達しているのだが、そこからあの世の知識を盾に延命を図っていることも要因だと思う。

追記2)この八幡神社の「通り道」に立てば、百回に1回くらい「そこに居ない筈の人影」を確かめられると思う。さらなる細かなTPOがあるので保証の限りではないが、この女たちのような「通りすがりの者」ではなく、常時背後に立つ者を知ることが出来れば、自分自身の生き方を見直す機会になる。そこに居るのは何かしら自分と接点を持つ者だ。生き方を見直し、死後にどう行動するかを予め用意して置けば、幽霊たちのように「死後に宛もなく彷徨う」事態にはならない。

 ただ、いつも記す通り、好奇心とか、ネットで受ける目的なら「止めとけ」。

 いざトラブルに発展すると、これを凌ぐのは容易ではない。祈祷師、霊能者は何の役にも立たず、自分自身で解決するしか方法はない。