◎幽霊は何を求めているのか
正月早々、あの世話でもないと思うが、昨夜、夢の中に「お師匠さま」が現れて、「この世を去るまでの間に、可能な限り、伝えるべきことを伝える努力をすること」と言われた。
お師匠さまによると、これまでに瞼を開いた人は五人くらいだったが、今はもう少し増えたそうだ。
肉体が滅んだ後も、「自我(自意識)」はある程度の期間残る。死後の「残存自我」のことを「幽霊」と言う。幽霊には未知の物質が関係しているが、目に見えぬガス状でもあり、まだどういう物質がが確認出来ていない。
さて、生きている者にとっての「自我」は五感によって強化されるのだが、肉体が滅ぶと、拠り所だった五感を失う。このため、自我の再確認が出来なくなり、自我は風化・崩壊してゆく。
肉体の死の後には、自我の崩壊が待っており、これが二番目の死にあたる。
「私(自己)」という存在が消えてしまうのは怖ろしい。このため、肉体と五感を持たぬ幽霊は、他の幽霊を自分の中に取り込んだり、生きている人の心の中に入り込んだりして、自我の存続を図る。
簡単に書いたが、これが大前提だ。
過去に繰り返し説明した通り、ガラスは通過させる光と、跳ね返す光を区分する(反射)が、跳ね返す方の光は幽霊を可視化する効果がある。恐らく可視域の外の波長光で、紫外線や赤外線だろうと思われる。
原理はまだ分からぬが、効果自体は確実に存在しており、ガラスに映る景色には、目視では見えぬものが映る場合がある。さらにカメラで撮影すると、カメラの捕捉範囲は人間の可視域よりも広いので、肉眼では見えぬものが写真に写ることがある。
文字テキストを並べても、瞼を閉じ、耳を塞ぐ人にはあまり意味がない。
そこでなるべく具体例を挙げて、考えて貰うことにする。
令和元年に撮影したこの画像は、これまで幾度となく公開して来たが、詳細を説明したことはない。
今は各々について「これがどういう存在なのか」を説明できるので、今回はそれを行うことにした。
撮影時、神殿の中にはお祓いを受ける客がいたのだが、外には私一人だけだった。
ところが、画像には私の周りに複数の人影が写っている。
ガラス映像に見る「人影」は、浴室の摺りガラスの向こう側を眺める行為に似ている。「人影」は朧げなことが多く、ここまではっきりと認識出来るケースは少ない。
私の周囲には複数の人影が見えるのだが、もっとも分かりよいのは、①肩にしがみつく女、②私の胸に手を差し入れる男と、③その男の背後に連なる黒い人影だろう。
それぞれは一体何者なのか、現時点で分かり得ることを記す。
①半裸の女
女性の白い額から両眼付近と左腕が見えているが、背後から私に抱き付いているということだ。
見えているのは、限られた部分だけなのだが、しかし、この女がほとんど衣服を見に着けていないのは、私が抱き付かれた当人だからということで、感触で分かる。
この当時は女の所在すらも認識出来なかったわけだが、今は出来るし、過去のそういった感触についても逐一思い出せる。肌が直接背中に当たれば、誰でもそれを感じ取れる。右の肩甲骨付近に、女のやや小ぶりの乳房が当たっている。
この女は元々人間だったが、今は淫魔(スキュバス)のような存在になっている。
多情な性格で、死後に他の幽霊を取り込んで、悪縁(悪魔)に変じた。
腕の長さから見て、幼女くらいの背丈しかないようだ。生きた人間を立たせて撮影したものでないことは、それで分かると思う。
この悪縁は「性交時の快感を自我を確認する手段にしている」ので、ひとに取り憑いては、欲心を吹き込む。
性への欲望は誰の心にもあるから、人によっては唆されるかもしれぬ。
②私の胸に手を差し入れる男
幽霊がその場にいる人に化けるケースが時々ある。幽霊が人に近づくのは、ひとの心に入り込み、その者の心と同化し、人格を乗っ取るためだ。
この場合、自分が入り込もうとしているのを悟られると上手くいかぬので、「その当人の姿に化ける」か「その場にいる人の姿に似せる」ことで、なるべく気付かれぬようにする。
当人に化ける場合は、その者に死期が迫っており、最終的にはその相手の自我と同一化するのが狙いだ。(あるいはその相手の「魂を食う」。)
この画像の数分前に撮影した画像には、これと似た服装をした参拝客の姿が写っている。一見すると、同じ人に見え、私も最初はそれを疑った。だが、細部を見ると、長袖と半袖、髪の長さなどが異なっている。
そもそも、この男の左手は私の胸に差し込まれている。見ず知らずの男にそんなことをされれば、私が気付かぬわけがない。
要は私に「集(たか)っている」ということだ。おまけにこの男は顔が崩れ、一つ目のように見える。
③亡者の隊列
②の男の背後をよく見ると、黒い人影がムカデ行列のように連なっている。
これには、「幽霊が幽霊に集る」場合と、「先頭の男の従者」すなわち、先頭の男に「食われてしまった幽霊」の場合がある。少なくとも、背後には十数体が連なっていると思う。
こういうのは、概ね「溺れる者は・・・」の諺のごとく、「生き残るために必死でくらいついている」ということだ。
この光景は、子どもの頃から幾度となく夢に観て来た。私の後ろを亡者たちがついて来るのだが、その数たるや数十万に及ぶ。映画のゾンビのような軍団が先に手を伸ばして歩いて来るのだが、その光景とまったく同じだ。
理由なく体が重く感じる時には、こういう事態が起きているのかもしれぬ。
◆対処の仕方
さて、①から③に共通するのは、「幽霊が寄り憑いている」と言う状況だ。
見ようによっては、とてつもなく怖ろしい状況になる。
「この先何が起きるのか」と不安になる。私もそう思った。
だが、実際には何も起きない。
もし背後にこういう輩が寄り憑いていることが分かれば、同調・同化されぬように、自分自身の頭で考え、振舞えばよいだけの話だ。それだけで一定の抑止策になる。
とりわけ、頭の中に湧いて来る声が「本当に自分自身の考えなのか」をよく見極める必要がある。
不味い対応の仕方のひとつは、恐怖心のあまり慌てふためき、習熟してもいないお経や祝詞を読んだり、祈祷師に「悪魔祓い」を求めたりすることだ。相手が誰が分からぬのに、いきなり殴りつけるのと同じで、事態が一層悪化する。まずは対話からで、「自分には助けられぬし、同調するつもりもない」という意志をはっきりと示すことから始めることだ。通常はそこで離れて行く。
昨年の私のように、強力な者に寄り憑かれ、長く苦しむケースもあるわけだが、冷静に対処することが重要だ。これこの通り、私はまだ生きている。
「恐怖心に囚われぬこと」と、その逆に「事態を軽く・甘く見ぬこと」が鉄則で、これが「あの世(幽界)」に相対する基本的な心構えになる。
追記)昔の記録を見ると、「スキュバス(淫魔)」や、あるいは「人に化ける幽霊」、すなわち「ドッペルゲンガー」を「実際に見た」という人がいる。
今ならカメラがあるわけだが、これの無い時代にどうやって目視出来ぬものを見たのだろう。水面やガラス窓に映る姿を「たまたま目視した」と言うこと以外には考えられぬわけだが、至って不思議だ。
ま、幽霊を見るのは、特別な能力によるものではなく、誰にも同じように備わっている感覚で、それこそ「瞼を開き、耳を欹てれば」、誰にでも見えるし聞こえる。