日刊早坂ノボル新聞

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◎幽霊は物として存在している

令和二年一月二十七日撮影の「防護服の男」

◎幽霊は物として存在している

 画像は一昨年の一月にたまたま撮影したものだ。

 時は横浜にクルーズ船が到着して間もない頃で、まだコロナの本格的流行が始まっていない頃になる。

 正月の初詣のシーズンが終わり、境内が疎らになった頃を見計らって、私は自分自身の状態を確かめに神社を訪れた。

 これより数年前に、「ガラス窓に映る人影」が実際にその場にいた人の数より多いことに気付いた。それ以後、「いつ」「何故」「どういう環境で」を調べるのと、自分自身がその中で置かれた状況を確かめるために、頻繁に神社に参拝していた。

 

 分かりやすい画像で、いずれも最初の画像を単純に拡大したものだ。

 私は神殿を正面に見て、ガラス窓の中央よりやや右側に立ち、神殿前の景色を撮影した。参拝客は私の他には誰もおらず、これは冒頭の最も引いたアングルでよく分かる。

 だが、同じ画像を拡大すると、中央のガラス戸の継ぎ目付近(少し左)に男の姿が見える。

 消防服、もしくは防護服のような制服を着て、ヘルメットのようなものを小脇に抱えている。これは「たまたまそう見えた」のではなく、殆どの人が「人物の姿」だと認識出来ると思う。

 

 興味深いのは、ガラス戸の継ぎ目の右側に、腕の端らしき体の部分が少し見えていることだ。これは左右のガラス戸の角度が異なるために、前の景色が二重映りしたものと考えられる。

 このことは、すなわちこの人影が「物的存在である」ということを示すものだ。

 固体ではないのは確かだが、しかし、霧状なのかガス状なのかは分からぬが、そこに物として存在していたことになる。

 言葉で表現するのが難しいが、要は「外界から独立した精神的なもの」ではなく、環境と関係しながら存在していることになる。

 形態は分からぬが(たぶん、未知のもの)、幽霊は物理的に存在していることになる。

 

 となると、金属やコンクリートの壁を幽霊は通過出来ぬことになる。

 障害物があったなら、人間や動物と同じように、その障害物を迂回する必要がある。

 幽霊と言えば、どこにでも、いきなり現れるイメージがあるわけだが、地球の物理的法則からは逃れられぬ面があるようだ。

 

 ちなみに、この時期に「何故、防護服の男が姿を見せたのか」という答えは「よく分からない」。

 「その後のパンデミックを示唆するもの」みたいなストーリーを考えてみたりしたが、男はそんなことはひと言も口にしていない。

 想像や妄想でものを言うのは、占い師の仕事だから、実証的に観察しようとする立場からは、「現時点ではよく分からない」が答えになる。

 

 ちなみに、様々な観察を得て、今は「死後に自我(自意識)がある期間持続する」という立場になっている。「信じる」とか「信じない」の次元ではなく、「実存」であり「現実の一端」だ。もはや、「どのように死を迎え入れ、死後にどう振舞うべきか」を考究すべき段階に入った。