日刊早坂ノボル新聞

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◎「女」が中に入って来る  (一年前の振り返り)

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令和二年九月から十月に撮影

◎「女」が中に入って来る  (一年前の振り返り)

 「幽界」は「誰もが死ぬと必ず通り過ぎる過程」のひとつだ。

 簡単に言えば、誰でも必ず幽霊になる。ただ、どれくらいの期間そこに留まっているかという点だけが異なるだけだ。

 このため、原則として「幽霊を怖ろしいものとして捉える」考え方は、必ず否定されるべきだ。人間には、犯罪者もいれば精神を病んだ者もいるが、だからと言って、人間の総てが「ひと殺し」や「気の触れた者」になるわけではない。これは簡単な理屈だ。

 そもそも、「そこに幽霊がいる」ことで、すぐさま「災いがある」「大変な事態になる」と見なすのは、あの世(幽界)のことをまるで知らぬということだ。

 

 だが、もちろん、例外もあり、人に災いをなす者も居る。これは「負の感情」を自我の拠り所とする幽霊が多いためだ。こういう者は悪意(恨みや妬み)の念により、自らの存在を強く認識する。

 死者、生者を問わず、相手と共感・同化し、合体して魂を支配しようとする。

 残念だが、こういうケースも実は少なくない。

 同化・合体される側の立場で言えば、「何者かが心の中に入り込み、感情や行動を操られる」ということになる。

 特記すべきは、他の者に同化されてもほとんど気付かないことだ。皆、それが自分の感情だと思うから、時に「心が変わる」。

 これは、同化する側でも同じで、幽霊は「コイツを同化してやる」「乗っ取ってやる」みたいな考えを抱いていないことがほとんどだ。同化する相手のことを「自分自身だ」と見なしているわけだ。

 自分の心(感情)に似た相手を見つけると、意思で近づくと言うより、自然に引き寄せられる。そして抱き付き、心の中に入り込む。

 

 ひとまず、今回はそういうケースについて述べて置く。

 昨年の九月から十一月にかけて、私はすこぶる体調が悪かった。

 それと重なるように、幾つか示唆される事象がある。

 最初は、大雨の中の「眼」だ。九月二日には、移動中に豪雨が始まったので、駐車場に車を入れ、三十分ほどそこで待機した。

 何気なく前を見ていると、雨の向こうから「誰かが見ている」気がする。そこで、フロントガラスを撮影した。

 画像では、「眼」がこっちを見ているようだが、この程度であれば、「気のせい」や「錯覚」だと見なすべきだ。

 ここで私は「念のため、充分に警戒する」ことを怠った。

 

 九月十三日。神社の本殿前に立つと、私の前に「そこにはいない筈の人影」が見えた。

 撮影してみると、うっすらとだが、画像にも残っている。

 しかし、目視の時よりも画像の方が朧げだ。話の素材にはするが、全面的な信頼を置き難い。

 この時も私はスルーした。

 少なくともこの段階で手を打っておけば、ほとんど問題が生じない。お祓いをして、自らを浄化するだけだから、簡単な手順だった。

 

 九月二十八日には、同じガラス戸の前で撮影したが、戸の継ぎ目の位置だったので、私の姿が二重映りした。しかし、そのことで、またも私はスルー。

 後でよく見ると、左側の一枚ガラスに人の姿が二人映っている。やはりこれも不鮮明だが、腕が二本重なっているように見える。

 言い訳になるような環境があれば、すぐにそれに飛び付いてしまうのわけが、幽霊が寄り付く時には、その考えを利用する。殆どの人が、二重映りしているのは自分の姿であって、「片方が別の者」だとは考えない。

 

 十月十五日では、既に半ばまで入り込まれている。

 撮影の定位置がこの地点だが、ちょうどガラス戸の継ぎ目にあたる。

 これは比較的分かりよいが、員枚ガラスの継ぎ目に、三人分の姿が写り込んでいる。

 とりわけ、左側の「私」のマスクの内側に、「もうひとつの頭が入り込んでいる」のは、理屈に合わない。

 耳が離れ過ぎているし、そもそも私の左の頭には毛髪が沢山あるようだ。

 「もはやべったりと貼り付かれていた」ということだ。

 

 これと符合するのは、この時期の体調の悪さだ。

 そもそも、「重い持病有り」で明日をも知れぬ身だが、「いよいよこれで終わり」と自覚する程の具合の悪さだった。

 改めて振り返ると、最初の黒い人影の時から延々と付きまとわれていたのではないかと思う。

 この「女」は病気を苦に自死した者だと思うが、その後の影は皆同じ者だと思う。

 そういう者に入り込まれると、必然的に具合が悪くなるし、「苦しみから解放されたい」気持ちが強くなる。だが、それは私本来の心から生まれた感情ではない。

 

 以下は例え話。

 車を運転している時に、不意に「何かの影」が飛び出して来たら、それが何かを考えている余裕は無い。考えているうちにぶつかってしまう。

 まずは「ひとや車が飛び出した」ことを頭に入れ、「すぐに回避行動をとる」のが正解だ。

 

 九月に「何となく気持ちの悪い影が立っている」と感じた時点で、ご供養を施し、傍に寄せぬ手立てを打っておけば、簡単に回避できたと思う。

 「かもしれぬ」の段階で手を打てば、わずか一日で終わる。

 十一月には「悪縁が寄り付いている」ことに気付き、ご供養と祈祷を行った。

 ひとまずは死なずに済んでいる。