日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎夏の終りの生活怪談 「隣の部屋の女」

夏の終りの生活怪談 「隣の部屋の女」
 もう秋なのだが、まだ日中は暑い。怪談は暑い時にしか向かぬので、慌てて書くことにした。「生活怪談」としたのは、実体験だけで、「オチを取ってつけたりせず脚色もしない」という意味だ。実際に起きたことをそのまま記す。

 今から二十年以上前のこと。
 週の半ばに、急に「温泉旅館の翌朝の朝食」が食べたくなった。温泉に三度四度と入ると、血糖値が下がるから、翌朝はかなり腹が減る。その時に食べる魚の干物なんかがやたら美味しい。
 すぐに探したが、さすがに二日前では予約が入らない。
 箱根や熱海・伊東の旅館が探せなかった。
 ダメ元で湯河原を探すと、たまたま小さな旅館に空きがあったので、そこに行くことにした。
 古い旅館で駐車場なども狭く、他の車との隙間が十センチもないようなぎゅうぎゅう詰めだった。よって出し入れのために車の鍵は旅館に預けた。
 部屋も古く、五人(大人二人子ども三人)がピッタリ入るくらいの狭い部屋だ。
 風呂は割合いよく、食事も値段の割には良い方だった。

 夜中になり、妻子は寝たが、私一人だけ眠れずに起きていた。
 子どもたちが寝られぬのでテレビが点けられず、当時はスマホなどもない。
 天井を見ていたが、夜中の十二時を過ぎたあたりから壁の向こうから話し声が聞こえ始めた。
 女性の声だった。
 「あれがこうで、これがこうで」
 愚痴めいた取り留めのない話を一人の女がする。
 たぶん、もう一人か二人がその部屋にいて、最初の女の話を聞いている。そんな感じだった。
 「・・・が・・・だったのに、どうして・・・」
 次第に恨み言になって行く。
 かさこそ、かさこそと話し声が続く。
 こういうのがあると余計に眠れない。

 起き出してビールを飲み、外の暗い海を眺めた。
 三時頃になり、少し酔ったので布団に戻ったのだが、女の声はまだ続いていた。
 だが、この時にはもはや酔っていたので、話し声を聞きながら眠りに落ちた。
 ひと眠りして目覚めると、午前六時頃だった。
 混雑する前に朝風呂に行くことにし、部屋の外に出て廊下を歩いた。
 隣の部屋の前を通ったが、ドアが開いていた。
 「随分早く出発したのだな」と考え、視線を向けると、スリッパが無い。もちろん、靴も。
 不審に思い、部屋の中を覗いたが、布団が敷かれていなかった。まだ片付けの始まる時間帯ではないから、要はその部屋は空いていた、ということだ。
 風呂から帰り、七時半に部屋食を摂ったが、その時に食事を運んでくれた仲居さんに、「右隣の部屋の人は?」と訊くと、「昨日は使っていません」との答えだった。
 えええ。女の声は絶対に聞き間違いではないぞ。
 それならあの声は何だったのか。幽霊か。
 これはよくある。私は行く先々でよく出会う。多くは声だけで「助けて」と呼び掛けられることが多い。

 だが、「幽霊ならまだ良い方だ」と思った。
 夜中に響いていたのは、女一人の声だけで、たぶん、その部屋にはその女しかいなかった。
 もし生きている女なら、その女は宙に向かって延々と話し続けていたことになる。生きている者がそういう精神状態になっていたら、それはそれで気色悪い。

 電車でも、たまに扉に向かってぶつぶつと話し続けている人を見るが、充分に気持ちが悪い。

 わざわざ温泉旅館に泊りに来て、そこでぶつぶつ愚痴られたら、近くにいる者は堪らん。

 一方、幽霊なら別にフツーだ。生前の恨み言を言うのが仕事のようなものだ。

オチはなくそれっきりだ。

 海岸なので魚が美味かったから、また行っても良いと思うが、旅館の名前を忘れた。