◎殆どの人には何も起きない
画像は埼玉県のある旅館で撮影したものだ。
冒頭は平成三十一年の画像だが、先にそこに到る状況について触れて置く。
今から五年以上前に、たまたまこの旅館の近くを通り掛かったので、ぶらりと入浴だけしてみた。
宿泊客専用の旅館に見えるのだが、日帰り入浴も受け付けている。
ただ、そのことはあまり宣伝していないようで、昼過ぎに入った時には他に誰もいなかった。(その後も幾度か日帰り入浴をしたが、他の客に出会ったことはない。)
館内に入ると、何となく人の話し声が聞こえるような気がした。
当初は、実際に館内の誰かが話している声が響いているのだろうと思った。
ところが、入浴中にも「カサコソ」と微かな声が聞こえる。
例えて言えば、厚い壁を隔てた隣室で人が話す声が、壁越しに聞こえるような音だ。
お風呂はやや古びているが、なかなか良いお湯だったので、後日、家人を連れて来ることにした。
それからかなり期間が開いたのだが、家人を連れてその旅館を訪れた。
やはり入り口から、「カサコソ」と人の話す声が聞こえる。
女性の声で「わたしは・・・で、あの時・・・。でも・・・」みたいな途切れ途切れの文章になっている。
入浴中には、一層、鮮明に聞こえたので、風呂から上がった時に家人に訊ねた。
「何か、ひとの話し声のような音が聞こえたか?」
すると家人は「聞こえた」と答える。
それなら、空耳ではなく、誰の耳にも聞こえるのかもしれぬ。
玄関で幾枚かを撮影したが、どことなく人影が見える。
また複数の視線を感じる。
その時の画像が、末尾の平成二十八年の画像だ。
さて、冒頭の平成三十一年の画像に返ると、これはその後、幾度目かに訪れた時のものだ。
こういう感じの出来事には、もはや私も家人も慣れていたので、別段、何も考えずに入浴することにした。
風呂に向かう途中、家人がトイレに寄ったので、渡り廊下の長椅子に座り、周囲を撮影すると、小さな煙玉が写っていた。
風呂場からまだ離れているので、水気に蛍光灯の光が反射したものではないようだ。
前に「声」を聴いていたので、不思議に思わなかったが、後でこれが此の地に由来するものではないと分かった。
この語、岩手県や静岡県等の複数の旅館に泊まったのだが、その各所で「説明のつかない煙玉」が写った。
各場所に共通するのは、「そこに私がいたこと」だけ。旅館の新旧は関係なく、築後三年の新しいホテルでも写ったから、その場所は関係ない。
三十一年の時に戻ると、入浴を終え帰る段になり、玄関の前で自分自身を撮影した。
すると、どうやら私の後ろに白い着物を着た女が立っているのが、うっすらと見える。
これは「見えない」人も多いと思うが、私がそれと気付いたのは、それまでにも各所でこの「白い着物の女」を見ていたからだ。
まず分かりよいのは、これより二週間ほど前、三月二十四日に、いつもの神社で撮影した画像に写っていた。
要するに、何時からか私の傍にいて、私の後をついて来ていたということだ。
それが果たして何時からだったのかは、よく分からない。
私は岩手の御堂観音を訪れた時からかと思い、その後、「御堂さま」と呼んでいたのだが、はっきりとしたことは分からない。
そもそも、この神社の前での画像と、二週後の旅館の前での画像が「繋がっている」ことについては、つい先ほど気付いたばかりだ。
別の件だと思い込んでいたのだが、改めて見ると、同じ衣服を身に着けている。
なお、断言しておくが、こういう画像を撮影したからと言って、対応を間違えぬ限り、「特別な何か:」が起きるわけではない。
これは幽霊なのだが、幽霊の大半は「助けて欲しい」と思い、ひとの心に近づく。
その対象は、自身に近い心を持ち、共鳴してくれそうな人で、共鳴・共振することで感情の起伏が激しくなることはあるが、自分を見つめることの出来る者には影響がない。
「自分を見つめる」とは「今の気持ちは果たして自分のものか」を自問しながら、暮らしているという意味だ。
気にしなければ、何ら問題はないが、死者には常に敬意を払う姿勢が必要だ。
ないがしろにされれば、どんなものでも腹を立てる。
さて、少し脱線したが、本題の旅館の話に戻る。
整理すると、問題点は下記の通り。
1)この旅館に入ると、いつもこの世のものならぬ「声」が聞こえ、画像に姿が写る。
2)複数の者が耳にするので、「気のせい」「幻聴」ではない。
3)それでは、この地がいわゆる「スポット」で、訪れる人に関わろうとする場所なのか。
答えは「ノー」だ。
この旅館はごく普通の場所で、九分九厘の人が何事もなく楽しむことの出来る場所だ。
家人は私と一緒にいることが多いから、少なからず私の影響を受けている。
ほとんどの人は「声」が聞こえないのではないかと思う。
これは何故か。
私は視聴覚域が幾らか広く、一般の可視域・可聴域をほんの少し外れたものを見聞きする。その他に「経験」を踏まえた「想像や妄想」が情報を補っているという要素もある。
普段、あまり「声」や「影」に気を付けていない人は、視聴覚の境界線近くの音や姿を聞き逃すし見過ごす。
要するに「受け手」の側がスルーしているケースが多いということだ。
結果的に、殆どの人が「この世ならぬ存在」を身近に見聞きしたり、はっきりと感じたりすることはない。
こういう状況では、見聞きする者が少数であることから、その内の幾人かは「自分には特別な能力がある」という意識を持ったりする。これは大いなる勘違いだ。
人間は耳で聞き、眼で見る。他の者との違いは、その幅が狭いか広いかということだけ。近視や遠視の者を能力者とは言わない。
あとは、大半が想像や妄想に過ぎない。
その意味では、「霊能者」を自称するのは、「その程度の経験に留まっている」ことの証明だと思う。自身を冷静に見詰めることなく、自身の「想像や妄想」に嵌り込んでいる。
以上を確かめるのは簡単だ。
もしそれが「能力」なら、「幽霊の存在を誰の眼にも分かるように出して見せることが可能になる」筈だ。しかし、幽霊の姿を自分自身で撮影し、「これが霊です」と見せられる者はいない。
もちろん、「死後の存在」は確実にある。
「この世ならぬ者」、すなわち幽霊(幽界の霊)は、自分を見てくれる者、自分に注意を払ってくれる者の周りに集まるから、ひとが注意深く周囲を観察するようになると、そのひとの周りに多く寄り付いて来る。
これは幽霊たちが「助けて欲しい」や「共感・共振したい」と思っているからで、その目的は、「自己の救済」や「自我の存続」というものになる。
因果は頭で考えることだから、幽霊側の理屈とはかなり異なる。
「恨み」など負の感情を抱く幽霊は多く存在するが、しかし、その念を向ける相手については、幽霊自身がよく分からなくなっている。
ちなみに、「注意を払ってくれる者」に対しては、どんどん踏み込んで来る。
画像の中で、「四角い枠から覗き込む子ども」について触れたが、これを記した瞬間に、CDドライブと外付けDVDの差込口が一斉に開いた。偶然かもしれんが、タイミングが良すぎる。
備考)最後にちょっと気色の悪い話を付け加える。
画像に「白い着物姿の女」が写っていたわけだが、「白い着物」は通常、「死に装束」で納棺の時に着せるものだ。
死者の衣装は、ほぼ「意識があった時のもの」と言えるから、幽霊が死に装束を着ているのは、「まだ生きていた」時のものだと言っても良い。
そうなると、納棺の時には、「まだ生きていた」可能性がある。仮死状態だったのだろうが、たぶん、程なく本当に亡くなったと思う。
火葬場まで行っていたなら、おそらく着物が焼け焦げているだろうから、その前ということだ。
可哀想に。きっと私の耳元で「助けて」「助けて」と叫んでいただろうと思う。