◎白衣観音のルーツを探る
数日前に自分の背後に「白衣観音が戻って来た」という実感を得た。
ほぼ三年ぶりだ。
「白衣観音」は私が便宜的に呼んでいる名称で、元は「白い着物の女」と呼んだり、「御堂さま」と呼んだりしていた。自分で名乗ってくれると話が早いが、まだそれはない。
一体何時頃から傍に寄り添うようになったのか。
逆に、この女性が居なくなった時期の方は明確だ。
神社猫のトラが死ぬと、それと行動を共にするかのようにふっつりと姿を消した。
日々の心の支えにしていたトラが去り、かたや常に寄り添っていたこの着物の女性の気配が消え、私の心中は一層混迷さを増した。
元々、人付き合いが嫌いなのだが、さらに避けるようになる。なるべく人を遠ざけようという言動になりがちだった。
改めて思うが、一体、何時から傍に立つようになったのか。
画像に残る姿を探すと、直接的に「これだ」と感じるのは、平成二十八年の小鹿野町でのものだった。
この温泉旅館の凄いところは、玄関を入るや否や、「声」が聞こえ始めたことだ。
壁を隔てた隣の部屋から聞こえるように、常に「かやかや」と人の話す声が聞こえる。私だけでなく、家人にも聞こえていたというから、かなり強い響きだったのだろう。
玄関先で家人を撮影したが、ファインダを覗いた時から、何だか後ろに人がいるような気がする。実際、画像を見ると、後ろの山の方に着物姿の女性が立っていた。
ちなみに、「何だか後ろにいる」のは、家人の後ろではなく、「私自身の後ろに」気配がある、ということだ。視覚的な意味ではない。
不思議に思い、幾度かその旅館を訪れたが、その都度、「声」が聞こえる。
湯船に入っている時が最も顕著で、浴室の内外から「かやかや」と囁く声がする。
そこでまた撮影したのだが、今度はでっかい女性の「眼」が写っていた。
なお、これが眼に見えぬ人も相当数いるが、こういう現象は人を選んで起きる。そういう人は、たぶん、「声」も聞こえぬと思う。そっちの人の方が多そうだし、その方が幸せに生きられる。
視線は冷徹で、生きている者のような温かみが感じられぬのだが、そこは死者であり霊だ。血は通っていない。
何気なく廊下を撮影すると、しゅわっと煙玉が出始めるところだった。
別に問題はなく、私の行く先々では必ず煙玉が写る。要するに、その場所ではなく、私の方に所縁があるということだ。
同日撮影した玄関の画像では、私の背後に白衣観音が立つさまが割と分かりよく出ている。
私は可視波長域が幾らか普通の人より広いのと、触感など他の要素があるから、女性の右手が私の横腹に当てられているのが分かる。
今では顔の表情も見えるのだが、やはり冷徹な表情だ。
元々、この女性は数千人の信徒を従えた修験者だったから、どこか厳しい佇まいになるのも頷ける。私は自分が女教祖で、信徒を引き連れ山中で修行するという夢を幾度となく観て来たのだが、それは私自身ではなく、この女性のことだった。
女性が経験したこと、見聞きしたことを、まるで自分が体験したかのように見ていたのだ。
今回初めて知ったが、この画像の左奥には、別の着物姿の女性が立っている。
これが見えるようになったのは、これまで何千枚かこういう画像を点検して来たからだと思うが、この女性は縞紬を着ている。
ここで「縞紬の女」が実在した人だったことが分かった。
この年には、半年以上に渡り、毎日、この「縞紬の女」が夢に現れては、自分がどんな経験をしたかを私に見せた。
大正から昭和初期にかけて、この女性は金持ちの妾だったが、年を取ると、旦那は若い娘に心を移し、女性を放り捨てた。最後は酷い死に方をしたのだが、その時の恨みがもとで悪縁と化したのだ。
この地に関わる者ではないが、「旅館」が媒体となり、ここに現れるようになった。
「かやかや」と囁く声は、この女が自分の思いを伝えようとしていたのではないかと思う。人間も幽霊も同じことで、聞いてくれる耳を持つ人が居れば、その人の前で話をする。
なお、接点を持たぬ者には、何も見えぬし、聞こえない。
この旅館を訪れても、特別なことは起きぬと思う。
もちろん、画像を拡大注視するのはやめて置くに限る。何かが見える者は少ないが、まれに波長が合ってしまう人がいる。こちらが見れば、先方にもそれが分かる。
その先は、「毎日、夢の中に怨霊が現れる」事態が待っている。
私は幽霊のことをあまり怖ろしいとは思わぬのだが、それでも毎夜悪夢を観させられるのには閉口させられた。
白衣観音は「慈愛」とか「安らぎ」とかとは一切無縁だ。
己を律し、道を究めようとする者の心を固くしてくれる。
かなりの美人だが、表情はすこぶる怖い。だが、もし何かを成し遂げようとするなら、傍でそれを見守り、支援してくれると思う。人事に手を出して助けてはくれぬわけだが、やりとげようとする意志を固くしてくれる。
志を持つ者は、心の中に白衣観音を置くと良い。イメージして、朝晩、「よろしくお願いします」と祈るだけ。繰り返しているうちに「願い」が「信念」に変わる。