日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎猫のトラは白衣観音の使いだった

◎猫のトラは白衣観音の使いだった

 物事の持つ意味を同時進行的に理解するのは難しい。移動しながらでは、自分の位置を確認するのが難しいのと同じことだ。

 最近、神社猫のトラのことを頻繁に思い出す。

 出会いから別れまでの日々の思い出を辿っていると、今にして色んなことが理解できる。

 最初にトラと出会ったのは、平成二十五年か六年頃だ。当時の私は心臓病の治療の影響で平地を数十㍍も歩けぬような状態だった。

 「このままでは幾らも持たぬ」と思ったので、車で通えそうな神社やお寺にお参りすることにした。

 そんな中、たまたまトラの神社に入ったのだが、その時、トラは鳥居の近くの樹の下のうろ(窪み)でうずくまっていた。

 トラは私を見ると、すぐさま立ち上がって、私の前に立ち、本殿の入り口まで道案内をしてくれた。私はうまく歩けず遅れがちだったが、トラは途中で立ち止まっては後ろを見て、私が追い付くのを待っていた。

 夕方で既に内門は閉じていたのだが、奉納箱は外に出ている。トラはそこまで案内すると、「務めを果たした」とばかりにそこに座った。

 最初の画像は、その時同行した家人が、その様子を奇異に思い撮影したものだ。

 猫がまるで人間がするように私を先導していたのだ。

 それからトラとの交流が始まった。

 トラは私が来ると、すぐに走り寄って私の傍を離れない。

 そのことが心の支えとなり、頻繁にこの神社に通うようになった。

 そして、心臓の具合は絶望的だったが、「この神社に百回通い、この猫に百回会うまでは生きて居よう」と心に決めた。

 いわゆる「お百度」だ。

 正直、百回参拝するのも無理だと思っていたが、いつしかそれを超えると、知らぬ間に足が動くようになっていた。

 軽い運動にもなっていたのだろう。せっかくの機会だから、神社参拝を継続するものとし、またさらに亡くなった人のご供養のためにお寺にもお参りすることにした。

 翌年からは、一年に百五十回はお寺か神社を訪れるようになった。

 そんな日々の中、ある時、画像の中に女性が映っていることに気が付いた。

 ひとつの例は、小鹿野町の温泉旅館の前で撮影した画像だ。この時には、館内に居る時から、始終、かやかやと囁くような声が聞こえていたから、たぶん、その声の主だと判断した。

 この頃に、ようやくガラスの中に「そこにはいない筈の人影」が映ることがあるのに気が付いた。これに気付いたのは、この旅館の前で撮影したことがきっかけだった。

 そこで、トラの神社に参拝した時にも、神殿前でガラス戸に映る自分自身を撮影することにした。なお神殿に向かって撮影するのは別に不敬な行為ではないので念の為。

 すると、ある一定の条件下では、ガラス面を撮影すると、「そこに見えている景色とは別の景色が映る」ことが分かった。

 煙玉や光、人影など、目視では見えぬものが画像に残るのだ。

 

 そんな人影の中に、「白い着物姿(白衣)の女」も混じっていた。

 この女は、この場にはそぐわぬ姿でいるし、サイズが普通人の背丈よりもはるかに大きいので、たまたま人間が映り込んだだけではないと分かる。

 (なお明らかに「この世の者ではない」ので、撮影した当時は少しビビった。まるでホラー映画に出て来るような状況だ。)

 だが、繰り返し出て来るから、私の傍にいる筈で、その割には何ひとつ不都合な事態が起きぬので、けして私に害をなす存在ではないと分かった。

 平成二十八年頃に、筋膜種に苦しんでいたのを、女の声に導かれて、岩手の御堂観音に立ち寄り、泉の水で治して貰ったことがある。その状況が重なっていたので、一時はこの地の霊ではないかと考え、「御堂さま」と呼んでいたことがある。

 だが、因果や由来をあの世の者が自ら語ったりはしないので、本当のところは分からない。

 さて、ある日帰り温泉施設を訪れた際に、私は老人の幽霊を拾い、その老人(の霊)をお寺に届けることにした。そこで、幾度かその温泉施設に行き、ご供養をしたのだが、その幾度目かの時には、「白衣の女」がはっきりと姿を現した。

 手先の肌色まで鮮明な画像だが、その画像には、さらに私と女を繋ぐチェーン(鎖)が映っていた。

 恐らくは「深い縁がある」ということを示すのだろうから、それまでの経緯を考えると納得するところがある。

 

 この年の四月には、猫のトラがこの世を去った。最後の日のことは今も忘れぬが、トラは私を離すまいと服に爪を立てさえした。他家の飼う猫でもあり、連れ帰るわけには行かなかったが、あのままトラを連れ帰り、最期を見取ればよかったと思う。

 画像の中に「白衣の女」の姿がとりわけ増えたのは、この時期と重なると思う。

 九月の「チェーン」の示唆を最後に「白衣の女」は私の前に姿を見せなくなった。

 

 それから今は三年目だが、今にして気付いたことがある。

 トラが去ると、程なくして「白衣の女」も去ったわけだが、これは「女」とトラが関わりがあったことを示すものではないだろうか。

 トラは初対面の時から、まるで人が人に対するようなしぐさを見せたが、これは背後で「誰か」に指示されたことではなかったのか。

 トラが去る前と後とを比較すると、猫が傍にいた頃には、体調がよく人事も好調だったのに、去った後はあまり体調が優れず、人事でも苦労させられている。

 元が「死に体」だったのだから、もしかすると、「白衣の女」が御堂観音の時と同じように、見えぬところで助けてくれていたのかもしれぬ。

 恩恵恩寵はそれを失った時に「初めて分かる」というが、まさにその通りだ。

 

 それなら、私はここで、また新しい願を立てようと思う。

 この後は白衣観音を信仰し、心と魂の救済を説こうと思う。

 現状のまま、私が死ぬと、すぐさま悪縁となりこの世に祟りを与えるようになると思うのだが、この願を通すなら、そうならずに済むかもしれぬ。

 

 なお、「白衣観音」は「私にとって」という意味だ。「白衣の女」が名を名乗ったことはない。とはいえ、この世ではそれが表すものを具体的な名で示す必要がある。