日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊感のある人とない人の違い

◎霊感のある人とない人の違い

 題名はやや「釣り」気味で、霊感自体は誰にもある。一方、特別な霊能力などというものは存在しておらず、単純に知覚範囲が広いだけだ。視角の場合は、可視波長域が少し広いのだが、近視や遠視を能力と呼ばぬのと同様に、その人の個性のうちだ。

 

 さて、赤外線は人の目視可能な光の波長域の外側にあり、人はこれを見ることが出来ない。もちろん、個体差があり、人によって、幾らか広い人と狭い人がいる。

 カメラの捕捉範囲は、人の眼よりも波長域が広く、目で見えぬものを画像に写すことがある。

 そうなると、最初の手掛かりは、人の可視域よりも少し外にいる筈のものを写す「画像」から得られる。

 最初の画像は、目で見えるのと同じように映った景色になる。

 ごく普通にガラス面に外の景色が映っている。

 これに対し、右側は景色の一部が歪んで見えている。これは画像の中だけで、これを撮影した時に目視した景色には異常がない。これはあくまで画像の中だけに起こる。

 これがなぜ起きるのかを、五年ほど継続して調べて来た。

 次の画像左は、遠近法に歪みが生じるケースになる。

 暖簾もしくは垂れ幕が内門に下がっているのだが、その幕のごく近くにいる人のサイズが、左右で著しく異なっている。

 ちなみに、左の女性の立ち位置は空中にあり、人の立てる場所ではないので、これは生身の人間ではないと考えられる。

 また、今回初めて気付いたが、中央に割と鮮明に顔が出ているようだ。

 

 右の画像では、私の背後の景色が歪んでいるのだが、よく見ると、この歪みの奥に人影らしき黒い影が見える。

 このことに気付いたので、このように画像に歪みが生じるケースには、よりいっそう注意を払って来た。

 

 次も背景の歪みを捉えたものだ。

 神殿に向かってかなり後ろから撮影したので、この場には参拝客の女性二人しかいないことが分かる。なお私の後ろはすぐに下り階段なので、背後に人が立つことが出来ない。

 神殿のガラス面を撮影すると、背景の木々に歪みが生じており、その中に男が立っている。これは割と鮮明で、この男が烏帽子を被っていることも確認出来る。

 神職かあるいは昔の人の装束を身に着けている。

 次の画像(左)は、人影は朧気だが、そこに「何かがいる」と分かるケースだ。

 画像の中に複数個所の歪みがあり、その奥には人影らしき「何か」がいる。

 要は、画像が歪むのは、これを歪ませているはっきりした要因があるからだということになる。

 もちろん、一足飛びに、これを幽霊の仕業などに結び付けるつもりはなく、ひたすら堅実に情報を収集し、整理して行くべきだと思う。

 ここで冒頭の歪み画像を点検すると、朧気だがそれと分かる煙状の「何か」があることが見て取れる。

 私は既に見慣れたので、これは「黒玉」だと思う。「黒玉」は「白い煙玉」とは異なり、霊そのものだ。玉の中には女性がいる。

 白い玉(煙玉)は、世間的には「オーブ」と呼んだりする人もいるようだが、基本的に自然現象だ。湿気や光の関係で画像に残る。ただ、あの世現象が起きる時にも付帯的に生じることもある。あくまで付帯的な現象であって、霊的現象そのものではない。

 

 さて、以上のことは、画像の中だけに生じた異変だ。

 目視で眺める分には、ガラスの中の景色に何も異常が起きていない。

 画像に落とし込んだ時だけに、異変を確認出来る性質のものだ。

 

 さて、ここで表題の「霊感」の話になる。

 画像の歪みと、その奥に見える人影めいたものを見て、「どこかで」見たことがあると思った人が多い筈だ。

 すぐに分かった人も多い筈だが、これは映画の『プレデター』に出て来る透明な宇宙人に似ている。

 要は、人の眼には見えぬが、空間(光)に歪みや気配を生じさせているということだ。

 そして、いわゆる「霊感の強い人」は、この歪みや気配を感じ取る鋭敏さや注意深さを持っている。こういう人は日常的に、視界の中に光が走ったり、影が横切ったりしている筈だ。

 だが、実は同じものを殆どの人が見ている。見ているのだが、それとは知らぬことと、注意深く観察したりしないので、気付いていない。

 霊感の有る無しの違いは僅かで、「注意深く見ること」「疑うこと」と「経験の蓄積」による。

 あれこれ因果を語る者も多いが、その部分は想像や妄想からなっている。これは、当たった外れたという問題とは別だ。目に見える出来事とは関係なく、出発点が想像や妄想ということ。同じものを見て「死んだおじいさん」を語る霊能者も居れば、「この地に昔からいる神」を語る者もいる。「出来事」的な内容はあまり関係が無く、重要なのは反応の方だ。誰に見えるかとは関わりなく、ご供養をして慰めると、同じように悪縁が去ったりする。「因果」についてはどう関わるのかがよく分かっていない。

 

 よって、霊的現象を自分の眼で確認したかったら、画像や目視に関わらず、景色を注意深く観察する習慣を持つことだ。相手側は自分たちが「見られている」と知ると、その途端に寄り付くようになるので、囚われ過ぎるのは禁物だが、距離を置いて付き合う分には、役に立つ面も多い。

 先走りし過ぎると、世間の「スポット」や「事故物件」で聞くようなホラー話の状況が、日常的に身の周りで起きるようになる。これはあまり心地よいものではない。

 「私には霊感がある」「霊能者だ」と自慢げに語る人が多いが、私にはそういう気持ちがまったく分からない。TPOを揃え、自分自身の姿を撮影してみるがよい。

 もし本当に霊感・第六感が強いのなら、十体と言わず多数の幽霊が体に取り憑いている筈だ。

 私は普通人の霊感しか持ち合わせていないのだが、注意して眺めて来たために、既に周り中が幽霊だらけになっている。

 視界の端に常に「プレデター」を見るのは、やはり気分のよいものではない。 

 

追記)「烏帽子姿の男」

 私が自分でも「スゴい」と思うのは、「烏帽子姿の男」だ。

 幽界には生きている人間の何倍かの幽霊がいるのだが、満員電車の状態にならぬのは、基本が「霧のような物質で成り立っている」ことによる。これが人のかたちに実体化するのは、ある限られた局面で、ごく一時的なものだ。

 人は「自分の見えるものしか理解できない」から、ごく一部だけを見て、それだけが「幽霊」だと見なす。

 自分でも「もはやスゴい局面に来ている」と思うのは、「偶然こんなのが撮れました。怖いですね」という次元ではなく、「撮ろうと思って撮っている」ところだ。

 TPOを揃えると、捕捉が可能になるのであれば、あの世を科学的に解明する道が開ける。いずれ自由に出して見せられるようになると思うが、その時まで私が生きているかどうか。

 

 そして、あの世に深く関わり過ぎたことが原因で、私は悪縁(悪霊)になる可能性が高い。死ぬと理性が無くなるから、悪霊化を止められぬと思う。

 ま、稲荷のお札を貼ってあるところには入らない。

 仁義(または協定)みたいなものがあって、双方が立ち入らぬようにすると思う。