日刊早坂ノボル新聞

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◎霊感のある人とない人の違い (その3)

令和元年七月十五日成田空港にて

霊感のある人とない人の違い (その3)

 まずはこれまでの経緯について。

 ガラス戸に映る景色を写真に撮ると、実際の景色とは別のものが見えることがある。

 景色がぐにゃぐにゃに曲がったり、そこにはいない筈の人影が映ったりする。

 ガラス面など物的環境によって起きるそれと異なるのは、景色の歪みなどが生じるのは、数分から数十分と言った短時間に限られる。それまで普通に目視と同じ景色が見えていたのに、ある時から屋根が曲がり、木々がよじれる。

 そしてその乱れた景色の陰には、人影が佇んでいることがある。

 

 とりわけ人影が分かりよいのは、周囲を見渡しても数十㍍四方に人が一人もいないのに、自分の脇に立っていたりすることだ。それどころか自分の背後から前に手を回して抱き付いていたりする。

 

 ここで、「見えないからいない」「いれば確認出来る」という当たり前の考え方が、どんどん崩れて行く。カメラは人の可視域の少し外側を写すのだが、さらに赤外線カメラを使用すると、より一層、「そこに居ない筈の人影」を捉えやすくなる。(常時ではなく、これはこれでTPOがある。)

 そこで、「人影は幽霊かそれに近い存在だが、日常的には人の知覚し難い条件下にある」という仮説が立てられる。

 見えず聞こえずとも、そこにいるかもしれない。

 

 これを立証して行く手がかりのひとつは、景色、すなわち光の進行が妨げられるケースがある点だ。

 人型が見えずとも、空間が歪んでいれば、その陰に何者かがいるのかもしれぬ。

 

 ここで私は、かつて自分の前に「お迎え」が来た時のことを思い出した。

 ここでは便宜的に「お迎え」という言葉を使うが、要は人をあの世に誘う(連れて行こうとする)存在のことだ。

 私ががこの「お迎え」の二人組を見た時には、まさに肝の縮む思いをしたのだが、よくよく思い出してみると、二人の周囲の景色がガラス面と同じように数十センチほど歪んでいたのだ。

 これははっきりとした「歪み」で見える場合と、煙や霧のように見える場合がある。いずれにせよ、本来の光の進行を妨げる働きをしている。

 

 ガラス映像は、歪みを捉えるのが比較的容易だが、この見え方に慣れると、「目視でも実は同じように見えることがある」と気付く。

 もっとも多いのは、夕方の薄暗がりの中だ。

 誰もいない筈なのに、目の前を、光や人影が横切ったように感じる時がある。

 あの世の存在は赤外線で見え易くなる場合があるわけだが、これはいわゆる熱線で熱と関係している。赤外線に反応しやすくなるには、周囲の気温が下がると格差が生じるという要素があるのかもしれぬ。この点はまだ実証出来ていない。

 いずれにせよ、普段から、より注意深く、目を凝らして見れば、景色の中に隠れている「プレデター」を認識出来るかも知れぬ。

 

 最初の画像は合成イメージで、肉眼ではこんな風に見えるという見本だ。

 ガラスの中の異変を見ているうちに、いつもではないが、次第に肉眼でも識別できるようになって来る。

 煙や霧、もしくは空間の歪みの陰に人影が立っているのだが、極めて朧げなことが多いから、通常は画像を経由しないと目視による認識は困難である。

 

 だが、見慣れると、微妙な景色の違和感を知覚出来るようになる。

 後の画像は、令和元年に成田空港まで家人を送った時のものだ。

 午前四時前に着いたので、まだ空港内は薄暗かった。

 ベンチに座っていると、前方に違和感を覚える。

 何となく、何かがこちらに近づいて来るような気がする。これは心の問題ではなく、見え難いものを断片的だが見ているということだ。

 たまたまカメラ一式を持参していたので、赤外線カメラで撮影した。

 すると、まだかなり遠いのだが、、通路をこっちに向かって歩いて来る二人組が写っている。

 「二人組」には嫌な記憶があるので、少なからず戦慄した。

 

 ガラスの中の「もや」と歪みを見慣れているので、その後ろを見通す練習は充分だ。

 私には、前にスタジアムジャンパーを着た背の高い男と、ジャケット(ブレザー)を来た小柄な男の二人がいるように、これは割とはっきり見える。

 ただ、この当時は自分が見えるので「他の人にも見える筈だ」と思っていたが、実際にはそうではないらしい。

 今思えば、それもその筈で、対象を眺める時の前提(出発点)がそもそも違うのだ。

 これは第六巻や霊能力がどうとかという次元の話ではなく、「見方を知っているか」ということと「蓄積があるか」、すなわち経験を重ねているかどうかの違いでしかない。

 ジャンパーの男は幽霊なのに片手をズボンのポケットに入れている。

 要は、これは視角・視力と注意深さ、それと経験値の違いでしかない。

 

 さて、こういうのは議論して先に進むわけではないから、この辺で止めるが、この先の話が重要だ。

 いつも例えに出す事例だが、「車の構造を理解し、分解したり組み立てたり出来ずとも、運転することは出来る」のだ。

 もし、相手が実際に存在し、しかも「お迎え」のような意図をもって近づいているなら、これが「本物の幽霊かどうか」などを考えている余裕はない。

 その数秒後には、連れて行かれるかも知れぬからだ。

 この場合は、「現実にそこにいる場合のことを想定して、対処策を講じろ」という選択しかない。

 一般人が付け焼刃の除霊と浄霊、あるいは祈祷だのを考える必要がない。普段バットを握らぬ者がいきなりバッターボックスに立ったところで、ヒットを打つことはない。

 

 相手がまるで生きた人間のように存在しているなら、「傍には来ないでくれ」と丁寧に頼むか、「来るな」と命じて近付けぬかのいずれかだ。

 この時の私は二人組の入る方向に向かって指を差し、「見えているからな。それ以上近づくな」と言葉に出して言った。

 きちんと筋を通して対話をするのは、関係がこじれぬうちは、割合と有効なようだ。

 

 現実に身の回りに現れ始めると、どんどん先に進むから、「あまりあの世に興味を持たず知らぬ顔をしていろ」と言われるが、ある意味それも正解だ。

 微小な気配を察知して、所在の確認が出来るようになると、幽霊は大挙してその人の周りに集まるようになるからだ。溺れる幽霊は自分を見てくれる者を掴もうとする。

 

 追記)撮影当時は二人組の周囲にもやもやと人の気配が出ていたのだが、大半は消失した。こういうのは時間の経過と共に変化する。

 ただ、二人の背後に新しく女の姿がある。

 

注記)推敲も校正もしないので誤表記・誤変換があると思う。

 今回画像ディスクにエラーが出ているので、掲示画像が少なくなった。