日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎摺りガラスの向こう

◎摺りガラスの向こう

 日中、陽光が降り注ぐ中で幽霊を目視する時、幽霊はほとんど影にしか見えない。

 うっすら、ぼんやりとした影だけの存在だ。

 じっとしていれば、概ね気付かぬほどで、実際、大半の人は気付かない。

 ところが、生きている人と同じように、その「影が動く」ので、気付く者は「おかしい」と不審に思う。

 いつも例えるのだが、映画『プレデター』の宇宙人のように、景色の中に溶け込んでいるわけだが、ほんの少しその景色に揺らぎがあるので、「遠くのものと自分との間に何かがいる」と分かる。

 

 これは「摺りガラスの向こうに人影がいる」のと同じようなものだ。

 摺りガラスを通すと、輪郭の分からぬ黒い塊のような影しか見えぬが、手足にあたる部分が「動く」ことで、それが人であると分かる。

 浴室にいて、誰かが洗面所に入って来たら、摺りガラスにシルエットが映る。当初はそれが誰かが分からぬが、その影の動き方で、それが妻(または夫)なのか、子どもなのかを判別出来る。

 「この動きは洗濯物を取り出すところだから、これは妻」

 「上に手を伸ばして歯ブラシを取ったから、これは息子」

 といったように、想像力を働かせるわけだが、実際、その人物がそこにいる。

 

 幽霊と生きた人間との違いは、幽霊が「肉体を持っていないこと」と「人間の可視域の境界線を跨いでいること」のふたつだ。

 このため、直接確認するのは容易ではないが、「摺りガラスの向こう側にいるのと同じようなもの」と見なせば、判別しやすくなる。

 要は注意深く観察すれば幾らかは見えるし、あとは不足する情報を経験と想像で補えばよいということ。半分は想像の産物だから、もちろん予想が外れることもあるわけだが、「見えぬから存在しない」のではなく「存在するが見えない」のだと考える方が状況を理解するのに役立つ。

 

 なお、夜間に幽霊を目視する時には、日中よりもはるかに鮮明に見える。黒い影だけでなく、天然色で見えることもあるが、これは日中と違い日光の赤外線の影響が小さくなり、幽霊本来の出す赤外線の方が見えやすくなるためだ。

 要するに周囲が暗いので相対的に浮き上がって見えるということだ。

 

 ちなみに、シャワーを浴びている時に、「浴室の摺りガラスの向こうに人影が立つのに、実際には誰もいない」という経験をしたことのある人は割合いると思う。

 その多くは「気のせい」だ。恐怖心が先にあり、妄想を膨らませることでそこにいるように感じる。

 たまに本物の幽霊だったりもするが、こういうケースでは何かをするわけではないので心配は不要だ。相手はただ何となく見ているだけ。

 浴室の入り口を開けると、ちょうど反対側に「鏡」がある筈で、幽霊はそのことを知っている。よって、開けて入って来ることはない。

 ホラー映画や小説と現実がまるで違うケースは、この「鏡」の扱いだ。

 現実には、幽霊が鏡の正面に映ることもほとんど無ければ、傍に寄って来ることも無い。

(角度が少し違う位置の場合は姿を現す可能性があるが、問題は無い。風呂やトイレに悪霊が出るのは「怪談の中だけ」だと思えばそれでよし。)

 

 私は浴室にいる時、摺りガラスの向こう側に「誰か」に立たれることが頻繁にある。家人と思い声を掛けると、返事は台所の方から聞こえて来る。

 そこにいるのは、家人ではない「誰か」ということだが、そこで「オヤジの裸を見てもけして楽しいもんじゃないぞ」と言うと、影はすぐに消える。

 「いない筈の者がいる」と思うから恐怖心を覚える。だが、「いつも近くにいる者」だと思えば、次第に平気になる。普通の人に対するのと同じように対処すればそれでよい。

 

 今日はこれからお寺と神社へ。お寺では撮影しなくなったので、写真は神社で撮る予定だ。