日刊早坂ノボル新聞

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◎冬は「黒いひと」の季節

◎冬は「黒いひと」の季節

 例年、十一月の終りから二月いっぱいまでの間が「あの世月間」で、この世の者ならぬ者が頻繁に現れる季節になる。おそらく空気が乾燥しがちなことと関係している。

 幽霊を含め、「あの世の者」はひとの可視域の境界線上にあり、普段は眼に見えぬが、TPOを変化させることで、見え易くなる場合がある。要は空気圧や湿度、光の質などの関係によって、可視的なものに変化する。 

「ガラス窓に自分の姿や景色を映して見る」という行為は、光の中でガラスに反射する波長のものを抽出する手続きだ。これは繰り返し実験することで、どの波長域が「あの世の観察」に適しているかを調べることが可能になると思う。実験には施設や装置の手助けが必至で、これには費用が掛かるから、この意味に気付いた宗教団体なりの目に留まるだろうと思っていたが、今のところ誰も来ない。

 ま、私の研究方向の行く末には、宗教によっては「都合の悪い事実」が判明すると思う(例えば、その主神が実際にはいない、みたいな)。

 要は「死後の世界は自然科学によって説明できる」ということ。

 例え話をすれば、「こころ」の存在だ。ひとの「こころ」は、見えぬし触れぬが、その存在を疑う者は少ない。霊的存在も同じ条件なのだが、何故かこちらは否定されることが多い。

 「死後の存在」は「こころ」に近い存在で、「こころ」はそもそも肉体の相互作用だけで成り立っているわけではない。脳神経の電子信号だけで、これだけの個体差は生まれない。  

 「こころ」にはこれを動かす独自の物質(ガス状)があり、これは肉体とは半独立的に存在しているようだ。まずは、それがあることを前提に進むことが解明への近道だ。これには、まず心理学の形成過程と同じやり方で、「霊理学」を成り立たせる方向に進むべきだと思う。

 

 ところで、前段で「幽霊は可視域の境界線上にいる」と記したが、そうなるとこれが見えるかどうかは、単純に環境条件(TPO)や可視域の個人差による。

 このことから、これまで「特別な霊能力というものは存在しない」と言って来た。近視や遠視と同様に、それは単に個人差に過ぎぬし、もしそうなら、環境を整え、個体差を矯正すれば、誰にでもあの世を見ることが可能になる霊感は誰にでもあるが、使い方を知らぬだけ。

 

 ここで話を元に戻すと、冬季になると、最もその存在に触れやすくなる「あの世の者」は「黒いひと」だと思われる。

 「黒いひと」は、影だけの存在だが、人型をしている。

 影だけに、陽光の下ではほとんど目に付かぬのだが、逆に暗がりでは目に付きやすくなる。

 これは光の波長と関係しており、とりわけ赤外線と関わりがあることが要因だろうと思う。

 赤外線はいわゆる熱線で、照射すると対象物が熱を帯びるわけだが、「黒いひと」はこれがマイナス側だから、黒くなる。周囲との差が生じることで、何となくそこだけ「黒い」または「冷たい」感じが浮き上がって見える。

 冬の夕方、薄暗くなった道を車で走行していて、道端に黒い人影を感じて驚かされた経験をした人は少なくない。注意深く周囲を見ていると、時々、物陰に立っているのを見られると思う。

 

 もちろん、「黒いひと」の出現パターンもひと通りではなく様々だ。

 ここに掲示した画像はこれまでにも幾度か公開して来たものだが、割と鮮明に「黒いひと」を画像に捉えられている。

 撮影当時は、あまりにも鮮明なので、自分や周囲の環境を疑ったが、幾度検証を繰り返しても「ここに何者かがいた」という結論になる。

 この画像には、窓ガラスの右側に外の景色が映っており、内鳥居を出て行く人影が見えている。

 既に庇の外で日光の下に居るのだが、全身が影そのものだ。

 当時は黒い服を来た女性が「前方に移動しているから残像が残った」かもしれぬと思ったが、しかし、四方八方に放射状に筋が出ているので、動作による残像ではない。この場合、画像が流れるのは動きの後方だけだ。

 

 この一分後に、もう一度ガラス窓を撮影すると、今度は室内の様子が映っていた。

 ここでは、室内にいる女性の向こう側に、また「黒いひと」の姿が見える。

 シルエットから見て、ほっそりとした女性で、ほぼ先ほどの「黒いひと」と同一の人影だと考えられる。この人影が半透明で、かつ生身の女性の向こう側に立っていることで、これが「生きた人間ではあり得ない」ことが分かる。 

 神殿の入り口は社務所の連絡口なので、わずか一分間の間に、「もう一度階段を上がり、社務所から神殿に回る」ことは、時間的に不可能だ。

 

 ちなみに、今回初めて発見したが、外の「黒いひと」を拡大すると、女の顔がふたつ重なっていることが分かる。これは、画像を拡大すると、誰にでも見えると思う。

 それなりの見方もあり、「風呂場の摺りガラスの向こう側に人が立っている」様子を思い浮かべると良い。向こう側の人がガラスに顏を近付けると、ぼんやりと顔が見える筈だが、それと全く同じだ。

 多くの場合、幽霊の類もこんな風に見える。

 目視出来るから「いる」、目視出来ぬから「いない」という判断はそもそも通用しない。相手は可視域の外にいる場合もあるのだ。

 「黒いひと」は一般の幽霊とは異質な印象があるが、幽霊たちとも何かしら関わっているらしい。

 

 ひとつの謎は、「黒いひと」が何故出現するのかということだ。

 世間的に言われていることのひとつは、「お迎えの一形態」で、「人が死ぬところを見に来る」というものだ。

 「お迎え」なら、私は一度会ったことがあるが、そいつは体の周囲十五㌢くらいの空間(要は光)を捻じ曲げていた。湯気が立つと景色がゆらゆら揺れるが、あんな風に周りが波立つ。

 あれを一度見たら、ホラー映画の悪霊は「人間らしくて可愛い」と思うようになる。

 幽霊は生きた人間の延長線上にいるが、「お迎え」「死神」はそうではない。異質な存在だ。

 「黒いひと」も、ひとの感情とは少し離れたところにいるような印象を受ける。

 実際、私は心停止の経験があるし、今も内部障害でいつ死んでもおかしくないが、その危険が生じる前にも「黒いひと」が画像に残っている。なお、撮影後、十年以上もそれが映り込んでいることには気付かなかった。

 

 あの世の解明には実証的な手続きが必要で、これには個人研究者の手には負えぬ面がある。

 組織的に動く仕組みがあればよいのだが、あの世研究の中心は、信仰かオカルト的関心(好奇心)によるものがほとんどで、事実上、役に立たない。

 私の残り時間はあと僅かで、たぶん、生きているうちに解明しきることはないと思う。

 程なく私もあちら側に立つので、その時はなるべく「お迎え」「死神」の立場に立って、あの世の所在を広く知らしめようと思う。ま、私は猶予を与えたりはせず、必ず連れ去る。

 

 追記1)かなり前から、「黒いひと」は近くに来ていたが、大半が女だ。これがもしかして同じ女だとなると、それはそれで話が少し違って来る。

 

 追記2)この季節には、時々、夕暮れ時に「黒いひと」が道路脇に立っている。

 こいつに気を付けるようにすると、脳の別の回路が働くようになるようだ。

 直感が閃きやすくなるらしく、先日、「建物の影から自転車が出て来る」気がしたので、急ブレーキをかけたが、実際に子どもの自転車が飛び出て来た。

 自転車は膨れて曲がるので、そのまま進んでいたら間違いなく撥ねたと思う。

 この時は「やっぱり俺の直感は役に立つなあ」と思った。

 

 追記3)「黒いひと」は特にひとに害をなす存在ではなく、怖れる必要はない。
幽霊も「気の触れた人」に対する処し方と同様に、気を付けて扱えば、さほど怖ろしいものではない。逆に怖れるとその感情の揺れを感じ取って、余計にまとわりつかれる。
 「お迎え」はあの世に慣れたものでも怖ろしいと思う。
 常々、私が「お迎え」に会った時のことを記すが、その時の恐怖と来たら、いまだに震えるほどだ。
 ホラー的な怖さではなく、「得体の知れぬもの」「異質な者」に対する恐怖だ。感情など、「人間らしい要素」がまったく感じられなかった。