日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎その場にはいない筈の人

その場にはいない筈の人影

◎その場にはいない筈の人

 「あの世」の存在を実証できるのではないかと思うようになったのは、比較的最近の話だ。それまでは、世間一般の考え方とな字に「霊感」「第六感」の流れで捉えていたが、偶然、「TPOが合えば画像に捉えられる」ことを知り、この方向に踏み出した。

 きっかけは平成三十年から三十一(令和元)年くらいに、たまたま画像に「そこにはいない筈の人」が写ったことによる。

 野山を撮影した画像の中に人影らしき姿が入ることがあっても、色んな別の言い訳がつく。「たまたま人がそこにいた」「たまたまそう見えた」だけ。

 だが、他に誰もいないのを確かめられる環境で撮影していたのに、そこにいない筈の人が写っているなら、概ねそれは「人間ではない」と言える。

 

 掲示画像は平成三十一年の一月のもので、初詣の人波が去った月末の頃に神社で撮影した。周囲には誰もいなかったので、三枚ほど連写した。

 この時期の画像は多くメモリの欠損により失われているが、神殿の前で重ねて撮影しているところを見ると、既に異変を察知していたということになる。

 まだコンパクトカメラで撮影していたから、画像は不鮮明だ。

 既に薄暗くなっており、周囲に人がいないことは確認済みだ。

 二枚目の下部には薄らぼんやりと「老夫婦」の影が映っているが、これは今回発見したものだ。彼らの入る筈の石柵は地上三㍍以上にあるから、この位置に人が立つことは出来ない。前が妻、後ろが夫で、境内では時々、画像の片隅に映る。

 普通は認識すら出来ぬと思うが、幾度もシルエットを見ていると、ほんの微かな影だけでそれと分かるようになる。

 ま、これは何千枚も見ている私でも、今ようやく気付いたほど朧げな影だ。

 

 分かりやすいのは三枚目からになる。

 神殿の前には私一人しかおらず、かつ前の画像の数秒ほど後に撮影したのに、人影が映っている。これは誰もが「人」だと認識する影だと思う。

 この当時は、帰宅後に画像を開いて見て、かなり首を捻った。

 誰もいなかった筈なのに何故これがあるのか。

 気付かぬうちに、別の参拝客が近づいていたかもしれん。

 そこでこの日の全画像を調べてみると、やはり前後にも人はいない。

 要は、その場にはいなかった人影が画像に写っているということだった。

 

 幽霊が何故普段は見えぬのか。それがTPOによっては、見えたり写真に写ることがあるのは何故なのか。

 これを確認するために、様々な環境で撮影して来た。

 この辺は繰り返し考察して来たので、ここには詳細に記さぬが、ひと言で言えば、「幽霊はひとの可視域の境界線の近くにいる」からで、それは概ね外側だ。

 だから日頃は見えない。

 光や周囲の環境によっては、見え易くなることがあるので、時々、目視で人影を見たり、画像に残ったりする。

 これは単純に物理的な要因によるものだ。

 ここでは神だの悪魔だのという説明や、霊能力と言う解法は一切要らず、物理的現象として認識出来るということになる。

 

 細かい説明は省略するが、死後に「自我・自意識が暫くの間残る」のは確実で、それにはこれまで未知の何らかの物質が関わっている。

 自我・自意識の残存する期間は、人によって様々で、それは求心力(想い)の強さによる。幽霊の多くは恨みや怒りを示すが、それがその幽霊の自我の核になっているからだ。恨みつらみの「念」は自我・自意識を固くする。

 

 糸口は既に開かれている。

 ここからはとかくあの世の本質をを語りたくなるのだが、しかし、一定の世界観を導くような思考経路は、あまり必要ではない。

 「死後にも自我が存在し続ける」のであれば、どのように死に、どのように死後を受け入れ、そこでどう振舞えばよいのかを考える方が重要だ。

 いつも言うことだが、「自動車の構造を逐一理解する必要はなく、ただ上手に乗りこなして目的地に着ければそれでよい」のだ。

 

 ちなみに、自分で幽霊の存在を確かめたいのであれば、いわゆるスポットなどを訪れる必要はない。幽霊はそれこそどこにでもいる。

 都心の駅前のショーウインドウの前で、日中なら午後二時から四時台、夜間なら午前二時から四時頃までの間、ガラスに映る景色を撮影するとよい。

 日中なら、日光が60度から80度の角度にある時で、当たり前だが、太陽を背中にする。ガラスの正面に立つのではなく、少し横に角度をつける。

 その時に実体化した状態の者が通り掛かれば、画像に残りやすい。

 その場合、事前に煙玉や光が入るから、その周辺の画像を点検すると、何かしらの異変が生じている。

 曇りガラスの向こう側を見通すような作業なので、慣れるまではよく見えない。

 当たり前だが、コツが分かるまでは、かなり掛かる。

 

 留意事項は、通行人の顔を撮るとトラブルの元なので、少し離れたところから撮影するなりして、タイミングを計る必要があるということだ。

 なお私は常に自分自身を被写体にしている(問題とされることが少ない)。

 画像に一度幽霊を捉えることが出来れば、その後は徐々に数が増える。

 もっとも配慮すべき点は、こちらが幽霊に着目し、それが見えるようになると、先方の方にも認識されるということだ。帰路ついて来ることが割合ある。

 理屈が分かれば、恐怖心が減るので、怖れず冷静に対処すればよい。もちろん、総てが自己責任だ。それがあの世のルールのひとつ目になる。

 死者に「常に敬意を払う」ことを忘れずに。