◎玉川問題の行く末
テレ朝玉川氏の復帰が十九日で、たぶん、その時に番組降板のお知らせがある見込みだという。
ま、当たり前だ。
一般の企業なら、普通は懲戒免職だと思う。
・電通はテレ朝の売り上げに3割程度関わっている。
・その顧客のことを悪者にし、公共の放送で罵った。
これだけでクビだ。
しかも、掲げた内容が作り話。裏も何も取っていない単なる「言い掛かり」だ。
ま、電通からは「ちょっとこれでは」というクレームが経営トップに入っている筈だ。差し出すのは玉川氏の首では済まず、経営陣の誰かも引責辞任する。
玉川氏の動機の方がもっと問題で、それが「菅前総理の弔辞を貶めるため」という愚にもつかぬ下賤な目的だった。
要するに、ただの感情(反感)で、子どものように「だってボクは気に入らないだもん」と言っていたに過ぎない。
ま、玉川氏が念頭に置いていたのは、菅前総理よりも安倍元総理の方だ。
このクズぶりが示しているのは、「国葬反対」の基盤がこういう感情論だけだということだ。
黙とうの時に「鳴り物を鳴らして妨害しましょう」と叫ぶ者の姿を見て、「これはちょっと違う」と感じた人はそれこそ国民の大多数だろうと思う。
玉川氏はある意味で「反対派」の正体を最終的に位置付けてくれたと思う。
ちなみに頻繁に使われた「法的根拠がない」には、明確な反証がある。内閣府設置法に「国の儀式は内閣で」行ってよいことになっている。
ここに「国葬儀」という文言がないという指摘もあるわけだが、具体的な事例は存在していた。
内閣府設置法施行の前年にあたる2000(平成12)年4月に政府の中央省庁等改革推進本部事務局内閣班が作成した内部文書「内閣府設置法コンメンタール(逐条解説)」で、同法4条の「国の儀式」には、①天皇の国事行為として行う儀式と、②閣議決定で国の儀式に位置付けられた儀式の2種類があり、②の具体例として「『故吉田茂元首相の国葬儀』が含まれる」と記されていた。
これは岸田総理の答弁の後で公表されたが、何故かメディアは一切無視。ま、こういうのがあっては都合が悪いからだろう。
いまだに「法的根拠がない」と言っている者がいるが、無いのはその人の「事実関係を調べる努力」だろう。都合の悪いことには耳を貸さぬように出来ている。
問題の発端は、地方メディアが感情論から話をでっち上げたことによるが、中央メディアがそれに乗り、流れを作ろうとした。
世論調査を誘導尋問的に行い、恣意的に操作した。
「視聴者の意見に寄せられた七割が反対だから、国民の大多数が反対」と主張するように、自分の都合が良くなるように事実を捻じ曲げている。統計っぽい数字を並べ言えぬことを言っている。
実際には社会学の学部学生でもやらぬ方法論的な誤謬を冒している。
そもそも、固定電話戸口調査は、今の時流には合わない意見収集方法のようだ。三十台くらいまではそもそも固定電話を持たぬ世帯が多くなっている。
メディアや反対派の「中核」が叫んでくれたことにより、一般人も安倍元総理の業績を考え直す機会を得たが、そのことは逆に再評価に繋がったのではないかと思う。
外交を中心に割とよくやっていた。
内政の方は誰がやっても難しかっただろう。
私的には、国葬儀だろうが合同葬儀だろうが形式はどうでもよく、選挙演説中に暗殺された政治家に弔意を示すことが重要だったと思う。
「黙とうの時に鐘を鳴らせ」は見ている方が恥ずかしい振る舞いだ。
一部には犯人に同情したり、持ち上げようとする向きがあるが、とんでもない話だ。
話の構図はこう。
「新聞販売店の店主との間にトラブルがあったが、その店主を困らせるために、その新聞と関わりのあるテレビ局の社長を狙って殺害した」みたいな話だ。
正当性など微塵もない。
そもそも信仰にのめり込んで家庭を崩壊させたのは、当事者である母親の責が七割を超えると思う。
それを「誰か別の者のせい」にしようとするところは、玉川氏と相通じる発想法だ。
自分の意に添わぬことがあると、すぐに感情的になり喚き出すのは、子どもの頃に我慢をした経験が少ないことが背景にあると思う。わがままを言うと、ブルーカラーや中産階層では殴られるのだが、ホワイトカラーの子弟はそうではない。
教育法に基づき「褒めて育てられる」から、「自分だけが正しい」と思う傾向がある。
毎日牛乳を飲んでいるのに、口に入れて美味しいか不味いかしか考えない。牛乳がどんな旅を経て食卓に上るのかを想像することもない。だから発想が貧困だ。
「気に食わぬから黙とうの時に鐘を鳴らせ」になってしまう。
そこには死者への敬意や、他者の意見に耳を傾けようとする姿勢が欠落している。
怖ろしいほど無知で、自分勝手な振る舞いだ。
「ねえ、お前は民主主義って何かを知っているか?」
「民主主義って言葉を知っているか?」
そう訊いてみたいもんだ。
他者を踏みつけたり冒涜して良い、というものでないことは確かだ。