◎バーサンだけじゃなくなる。
私自身の中では「東京五輪が来るかどうか」はひとつのテーマになっていた。
かなり前から、「自分が東京五輪を見ることはない」と思っていたからだ。
よって、昨年などは一年を通じ、「本当に五輪が開催されるのか?」と繰り返し言って来た。このブログにもその記述が沢山ある。
実は世間的な意味ではなく私自身のことで、要するに「その時に自身はこの世を去っている」と思っていたのだ。
だが、その節目の日を昨日越えた。
そこで調子に乗って、「これからは世間の人が分かるようなかたちで、どんどん出て来い」と祈願した。
翌朝に目覚めてみると、「あんれまあ、ひとつじゃねーぞ」。
数日前には、向かいのベッドに居た高齢女性らしき人影を見ていたのだが、今日は複数の気配がある。
とりあえず、この日は通院日なので、六時台にシャワーを浴びたが、浴室にいると、例によって摺りガラスの向こうに人影が立った。
「ちっ。こういう時はやめてくれ。急いでいるのに気が散るじゃないか」
学校勤めの家人はもう夏休みだから、この時間帯に起きて来ることはない。
頭を洗って石鹸を流すと、今度はきっちり摺りガラスのシルエットが「人型」になっていた。
ああ面倒だ。
そこで、浴室の扉を開き、脱衣所の様子を確かめてみた。
すると、脱衣所の扉が内側にすっかり開いており、その扉の影が人に似た影になっていた。
「なあんだ。やっぱり思い過ごしじゃないか。いざ思い込むと、薄の揺れるのまで幽霊に見えるようになるからな」
もう一度、浴室の扉を閉め、そこで気が付いた。
「でも、一体誰があの扉を開けたのだろう」
当家の脱衣所にはあれこれと物が置いてあるので、いざ脱衣所に入ったら、一旦、そこで扉を閉めないと、スペースが狭くて服を脱げない。
私は疑いなく閉めたが、誰が開けたのか。家族はまだ一人も起きていないのに。
ま、別にようござんす。今、突然始まったわけじゃない。
これからは「五輪しばり」が無いので、思い切りよく前に出られる。
そこで、赤外線カメラを持参することにした。
きっと休みだから、患者はいないし、病院の中をあれこれ撮影してしまえ。
地下も、トイレの前の部屋の辺りも、何ならその部屋の中に入ってもいいぞ。(叱られるよな。)
もはや「秋」が本格的に始まりつつあるのだから、いずれはっきりした証拠が撮れる。
それを見れば、「迷いなく生きよう」と思い直す人が数人は出るだろ 。
一千人のうち、二三人でも現れれば、少しは「足しになった」ということだ。
ま、結論を先に書くと、初日ははっきりした証拠が得られなかった。
(そもそも休日では無かったから、撮影するのが憚られた。)
しかし、「後ろをついて来ている」感がハンパないので、いずれチャンスが来ると思う。
もちろん、これまで調べて来たのは、「ウケる」ことではないから、これまで通り、堅実に資料を積み重ねるということだ。
より良き「渡し守」になるためには、それなりの準備が必要だ。
何時の日か、既に死んだ筈の私がふらりと現れたなら、それはその人の「今生がそこで終わる」という意味だ。
たぶん、私の最初の言葉はこれ。
「死ぬとこうなりますよと、俺の生前に幾度も説明して来たのに、今まで塵ほども本気にしなかったの?」
人によっては、一回だけチャンスを上げるかもしれない。それがひと月か半年かはその人次第になる。
ちなみに、これまで避けて来た撮影方法は、「自分の肩越しに後方を撮影する」というものだ。
これまでの例では、後ろにゾロゾロと引き連れている場合があるので、赤外線カメラなどを使えば、まともに写る可能性がある。
さて、「決まった期限が無い」のは、「追い立てられる気持ちに駆られない」という利点がある一方で、「漠然と明日も今日と同じ日が来る」と思い込んでしまう欠点がある。
私はいざ「こうしよう」と思い立ったら、決めたことを必ず実行する。
今までは、決意したその日の内に「始めたり」「捨てたり」して来たが、期限なしになったら気を許し、怠け始めるかもしれん。
ま、常に幽霊に見張られているから、ダラダラと過ごさぬとは思う。