日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎秋が始まったので(590)

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令和三年七月二十三日撮影

◎秋が始まったので(590

 自宅のカウンターの脇に人影が立つようになり、「(私の)秋が始まった」ことが分かった 。

 いつもの年より二週間以上早く来たようだ。

 

 昨日、病院の霊安室の前で、どうやら一体拾った感じがあるので、今日は神社に参拝することにした。

 長く付きまとわれると、こういうことに慣れているつつもりの者でも悪影響が出かねない。 

 病院は幽霊が溜り難い場所なのになんでまた。

 普通は霊安室の中に入ったとしても、まったく何も起きないのに。

 

 出掛けたのが遅かったので、神社に着いたのは五時近くになってからだ。

 ガラス窓に映る自分自身を撮影したが、画像に歪みが出ているものの、さしたる異変が見当たらない。

 腕が膨れたりするのは例年のことで、徐々にはっきりと姿を現すようになる。。

 

 だが、最後の一枚で納得した。

 昨日、私の後ろに立っていたのは、高齢の女性だった。

 今日の最後の画像では、その「高齢の女性」がきっちり後ろに立っていた。

 殆どの人には分からぬと思うが、背後にある物ではないことだけは認識出来ると思う。

 何故、これが老女だと断言できるのか。

 その答えは、「実際にこの人に会ったことがあるから」だ。

 この女性は私の真向かいのベッドにいた人で、二週間くらい前から病棟に来なくなった。

 長らく入院していたと見え、髪がボサボサで、ガリガリに痩せていた。

 姿を見なくなったのは、「亡くなっていた」ということだ。

 

 姿を消す最後の日かどうかは忘れたが、私がベッドから顔を上げた時に、この女性がじっと見ていた。

 「何故自分のことを見ているのか」と不審に思ったが、死期が近くなり、普通の人なら見えぬものが見えるようになっていたということだ。

 死者(幽霊)から見ると、私の周りには煙玉が飛び交っているように見えるらしい。

 かつては猫のトラもこれを見て、「自身の仲間」だと思ったのか、点にしか見えぬ遠くからでも、一心に走って私のところに来た。 

 

 こういうのは、「拾って、助けてやる」ことにした。

 もはや慣れたので、私自身に障害が起きることはないと思う。

 

 この日の神社での祈願はこれ。

 「殆どの人は自分の見えるものしか信じない。それなら、はっきりとそういう者が認識出来るかたちで姿を見せてくれ」

 「死後の存在」があるのは確実で、「穏やかに死を迎えるためには、生前に然るべき準備が必要」なことが分かっている。

 それなら、まず「死は終わりではない」ことを認識させる必要がある。

 まずはそれから。

 

 ちなみに、私はあのバーサンのことを、「背負って連れて来た」ようだ。もう慣れたので、何とも思わない。

 髪の毛がボッサボサの「ミイラ婆さん」が何故か私のことを凝視しているので、「薄気味悪い」と思ったのだが、あのバーサンは死んでいたのか。

 顔は不鮮明でも、あの髪の毛のことは忘れない。

  背中におんぶして来たのかと思うと、少し気色悪いが、ま、仕方が無い。

 新しい「務め」が出来たので、たぶん、まだ当分の間、私は死なないと思う。これで「五輪前の死期」をスルー出来る。

 

 追記)病棟ではほとんどの患者がベッドの真上のテレビモニターを見ているのだが、何となく首を上げて前を見ると、向かいの高齢女性患者がじっと私を見ていた。

 すぐに視線を外し、しばらくしてから、また何となく首を上げると、やはりその患者が見ている。その前の時から、それまでずっと見続けていたらしい。

 長患いと見え、長期間に渡り床屋をしていないようで、髪の毛がざんばら状態。鬼気迫る表情だったが、あの感じではさすがに記憶に残る。

 「この人はほどなく死にそうだ」と思ったのだが、やはり亡くなっていたようだ。