



◎どうやら「小さい老人」の謎が解ける
五月の画像に残った「小さい老人」について、これまでの経験に照らし合わせて考えてみると、やはりあのミイラ患者のようだ。
撮影の数日前まで、病棟にいた患者だが、たぶん90歳前後。既に外見はミイラに近い骨と皮の姿になっていた。
おそらく断末魔の叫びだったのだろうが、一日中、叫び声を上げていた。
私の治療が終わり、病棟を出る時に、ふたつ隣のベッドを見ると、この患者がいて、眼を向けた時に相手の視線と合った。
「ああ、この人はもう・・・」と思ったのだが、誰でもあの状態を見ればそう思う。
たぶん、その時に接点が生まれており、その患者は恐らくその日の夜には亡くなったと思う。
かなり苦しんで亡くなった。
それから二日後くらいが、あの神殿前の画像になる。
まず、120㌢あるかどうかの背丈だ。
頭のかたちから見ると子どもではなく老人のよう。
だが、通常、死者なら半透明に写ることが大半だ。この人影は鮮明なので、そこがむしろ不審に思える。
だが、死後まもなくの場合は、生きている人とまったく同じに見えることがある。家人も伯母が亡くなった折、葬式の日に窓ガラスの外に立つ伯母を見たと証言している。
「子ども」の姿は自意識との関連だろう。
高齢になり認知症が進むと、「幼児に返る」人もいる。
体は老人なのだが、心は幼児に戻っている。
「死に間際」の心の状態は、死後の方向性を定める。悩み苦しんで死ぬ者は、その悩みや苦しみを死後も抱えることが多い。
自死した者の多くは、死の直前の姿のままでいる。
「亡くなって間もなく」「子どもに返っている」となると、真っ先に思い浮かぶのがあの患者だ。
眼を見てしまったことで、私が連れて来ることになったのかもしれぬ。
ちなみに、いつも画像の人の目にマスクを掛けるのは、個人情報保護というより、無用な接点を作らぬためだ。
幽霊画像でも、幽霊がこっちを正視しているかどうかが重要な要素で、関心が別の方向に向けられていれば、別段、何も影響は無い。
視線が合い、共感する要素を持っていると、幽霊がついて来ることがある。何か考えがあるからではなく、単に居心地がよいからのようだ。
土曜に病棟でその患者を見たが、日曜の夜の午前二時頃に亡くなったと思う。もちろん、時刻自体は想像であり妄想の域だ(あくまで「そんな気がする」の域)。
次に確かめてみようと思う。
本題はここから。
死に間際の状態、主に心の状態は死後の行く末に大きな影響を与える。不治の病で、今まさに死を迎えようとしている患者に対しては、患部にモルヒネを打ってあげればよいと思う。もちろん、「痛みを軽減する」という意味だ。
苦痛をそのままにひたすら延命治療を施しても、「一日二日息をしていた」記録が残るだけだ。その間、患者は地獄の苦しみを味わい続ける。
痛みを軽減してあげることで、安らかに死期を迎えられる人が増える。