日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎急死すると  (昨年を振り返って)

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いずれも令和元年九月撮影

◎急死すると  (昨年を振り返って)

 急病や事故・事件など、死を予期する前に亡くなってしまう事態は、往々にしてよくあることだ。

 亡くなるまでに、自身の人生を振り返り、自身の死後についての心構えが出来ていればそれほど問題は無いが、まったく想定していないといささか面倒なことが起きる。

 

 1)多くの場合、ある程度の期間は眠ったままでいる。暗闇の中にただ「ぼんやりとしている」状態だ。期間は人によって様々で、数年から十数年。

 2)目が覚めるが、ものを考えることが出来ない。ぼんやりと昔のことを思い出し、喜怒哀楽に耽る。その場合、死の直前の心情が強く影響する。自死すると、死に間際のままでいる。

 

 画像は昨年九月八日のもの。

 たまたまある施設の前に立ったら、何となく異変を感じたので、カメラを構えた。

 するとガラス戸の内側に、老人の顔が映っていた。

 まるで扉の内側にその人物が立っていたような絵面だが、よく見ると、との内側には長椅子が置かれている。そこには誰も座っていないので、要するに、老人には「下半身が無い」ということになる。

 この日は、神社で撮影した画像にも人影が写っているようなのだが、こちらはあまり鮮明ではない。

 例年、四月頃から八月はほとんど何も起きないのだが、秋口から少しずつ異変が始まる。

 どうやら、昨年のはっきりとした境目は、まさにこの日だったようだ。

 

 九月十二日に同じ施設で撮影すると、これまで幾度も公開して来た、あの「御堂さま」の画像になる。

 今にして思えば、老人が見ていたのは、私ではなく「御堂さま」だったのではなかろうか。

 私の背後に立つ「白い着物の女」は、私ではない別の「誰か」に向けて右手を差し出している。

 八日には、その「誰か」があの老人だったのではないかと思う。

 いつもこうなら、幽霊がわんさか寄り付くのも当たり前だ。

 しかしま、私が単なる「使者」だったとしても、幽霊のことを暗闇から引っ張り上げる手助けをしていることには間違いない。

 

 なお、自身の死を受け入れ、生前のことに執着することを止めれば、あっさりと楽になる。死ぬのは単なる通過点だし、いずれ生まれ替わるのだから、「死」自体はそれほど怖ろしいものではない。

 怖ろしいのは、死んでも生前の執着心を持ち続けることだ。これを手放さないと、苦しみが延々と続いてしまう。