◎幽霊に寄り付かれた時に起きること
画像は昨年の十月に撮影したもので、これまで幾度か公開したものだが、改めて詳しい状況を記す。
まずは前段階から。
きちんとしたお寺や神社には、周囲に幽霊が集まる。生前の習慣だったり、ひとの気配に引き付けられたりするためだ。
どのお寺、神社でも程度の差はあれ、同じことが起きるが、場合によっては、それが顕著なことがある。
この神社は「幽霊が集まる」傾向が強いのだが、それに加えて、神殿の前にガラス戸があり、それに外の様子が映される。
それに気づいたのは数年前だ。
たまたまこの神殿の前で写真を撮影した時、そこに居たのは私一人だけだったのだが、ガラスには別の人影が写っていた。
このため、時々、ここで自分自身音姿を撮影し、異常の有無を確かめるようにしている。
この画像を撮影した時には、先に男性が一人手を合わせていたので、この人が去るまでその場で待った。
私一人になったので、神殿前で撮影すると、おぼろげだが、人影を確認できた。
割と判別しやすいのは、①向かって左側の女と、②右側の男だ。
①私に取り憑く女
私の右肩の後ろに「白い女」の顔が見え、右腕にはその女が手を掛けて掴まっている。
うっすらと顔の表情も見えるのだが、細面の醤油顔(和風)だ。
この女はこの時だけでなく、時々、画像に現れているのだが、いつも白いノースリーヴのワンピースを着ている。ちょうど『七年目の浮気』のモンローが来ていたのと同じドレススだ。背中が広く開いており、露出度が高い。
絵面は薄気味悪く、何か凶事が起きそうだが、実際には何も起きなかった。
幽霊は、自分と同じ波長を感じると人に寄って来る。しかし、基本的に「自他の違い」を認識することが出来ない。このため、人間に取り憑いても、その人が幽霊の心情と同調し、これを受け入れぬ限り、何ら悪影響は生じない。
この女が死後も執着しているのは「情欲」で、生前は多情だった。
服装が半裸と言っても良いほどなのは、そのためだろう。
昔の人はこういう幽霊を「淫魔」と呼んだ。
想像に難くないが、こういうのが寄って来て、それに同調してしまうと、欲情が高まる。
どうしても、「誰か」に対し、欲望を覚えるようになるのだ。
ここで「誰か」と書くのは、男女は関係ないからだ。
「あの世(幽界)」のルールは、人間界とはかなり違い、この世の法律にはあの世では意味が無い。だから、誰かに恋心を抱こうが、欲情を覚えようが、そのこと自体に特に問題はない。浮気とか不倫などという概念そのものがない。
よって、「恨み」「妬み」「嫉み」や「怒り」などの「負の感情」に繋がらぬ限り、さしたる影響はないと言える。
魅力的な男女を目にした時に、欲情を覚えるのは自然なことで、それに囚われ、行動に表すことが無ければ、ほとんど問題はない。
「そういうものだ」と受け流せばよい。
これを幽霊の側から眺めると、どう見えるのか。
死んで幽霊になると、自他の区別がうまく出来なくなる。
自意識(自我)の根幹は「五感と思考力」によってもたらされるわけだが、既に両方とも失っている。
このため、死後、自意識(自我)は時間の経過と共に薄れ、弱まって行く。
すっかり解体し、記憶や感情が分散してしまうと、自我は完全に消滅してしまう。
これを避けるため、幽霊は同じような性質を持つ他の例と合体し同化することによって、自我を長らえようとする。
ホラー映画や小説では、悪霊が明確な意思(悪意)を持ち、「お前を殺してやる」みたいなことを言ったりするが、そういうケースは殆どない。(もちろん、ゼロではなく、何百と同化・合体を経た悪霊には、ごく稀に明確な自意識を持つ者がいる。)
現実の幽霊は、自身が思い描いた世界の中に生きているから、自他の違いさえ、あまり認識することが出来ない。
簡単に言えば、幽霊が人間に取り憑く現象は、相手に「同じ匂いを感じ取り」引き寄せられているだけだ。要するに、自身が囚われている執着心と似たものに寄り付き、同化しようとする。
すなわち、人に寄り付いている時には、自身とその人との「区別がつかない」状態になる。
さて、ここでもう一度、「取り憑かれる」側の視点に戻る。
もし①のような幽霊に取り憑かれるとどうなるか。
たまたま、その時には「誰かに恋心(または欲情)を覚えている」かもしれぬ。
普通はそのこと自体に問題は少ない。
素敵な男女を目にして、「ステキだ」と感じるのは、ごく自然のことだ。
だが、別に同じように取り憑かれた人(第三者)が近くにいる場合もある。
その場合、双方にとって、相手が「魅力的に映る」。
感情が高ぶっているからだ。
幽霊は他者の立場を考慮せず、自らの執着心に従うから、これと同化・合体し、さらにそれに応え得る相手がいれば、状況を考えずどんどん暴走してしまう。
ひと言でいうと、「淫魔に取り憑かれると、その途端に『もてる』ようになる」から、注意が必要だ。
そういう感情に支配されないようにするのは、ごく簡単なことで、「これは果たして自分の本心かどうか」を考えてみるとよい。
あるいは、私のように「自身に取り憑いている」存在を目視確認できれば、簡単に分離できる。
こういう時の破魔の呪文はただひとつだ。
「もうお前のことは見えている。俺はお前が誰か知っているぞ」
これだけで幽霊は離れて行く。同化できなければ、寄り付く意味はないからだ。
こういう現象は、「特定の人」が「特定の状況」にある時だけに起きるのではなく、「何時でも」「誰の身」にも起きている。その時々の感情の起伏に応じ、「同類」が寄り集まって来るのだ。
これで、世間でよく言われる「憑依」という表現があまり適切ではないことが分かる。
その時々に、実態として離合集散しているのなら、単純に「たまたま幽霊が寄り付いている」と見なす方が正しい。
要するに、「さほど大したことではない」のだ。
よく言われることだが、「悪霊は、自ら戸を開き、招き入れぬ限り、入っては来られない」。
これは家だけでなく、心も同じだ。
幽霊は不良(人間の)と同じような存在で、青の相手との間に境界線を引き、「ここからは入って来るなよ」と宣言すれば、あまり問題は生じない。もし入り込んだら、総力を挙げて潰しに行くだけ。
次に②の男のケースに移る。
この男の影は、「幽霊」と認識するまでに、割と時間が掛かった。
何故なら、その直前まで、神殿の前にいた参拝客と、この男がほとんど同じ服装をしていたからだ。
幽界の事象は、概ね可視域・可聴域の外側にある。しかし、振り子のように波長が揺れているから、ごく僅かな間だけ目視出来ることがある。
画像に鮮明に映ることは稀なのだが、この時も例外ではなかった。うっすらと人影らしきシルエットが見えるだけ。
だがよくよく見ると、現実の参拝客とは髪の長さが違うし、男性は既に去った後だ。
この時、私の真後ろに人はいなかったし、ましてや直接触れられてもいない。
これに類するケースは割と頻繁にある。
幽霊が寄り付こうとする時、相手の感情に寄り添うから、限りなくその者の心境に近づく。その相手の目を通して外界を見たりもする。
私は直前に参拝客の男性を見ているから、幽霊が無意識のうちにそれに「似せた」のではないかと思う。
よくよく見ると、②の男の後ろには、同じように、「体に掴まり、つき従っている人影」が連なっている。
同化・合体は、幽霊と幽霊の間でも常に起きているらしい。
これは、そこにいた人の姿が模倣されるケースだが、これより多いのが、「同化対象の姿を模倣する」ケースだ。
たまに、私は自分自身を写した画像の中に、もう一人、私にそっくりな人影を見付けることがある。不鮮明で、かつ数日中に消失してしまうのだが、同じ服装、同じ体勢を取っている。
こういうのが時々起きていたから、昔の人は「ドッペルゲンガー」というものを想像したのだろう。
死期が近づくと、幽霊が「死の匂い」を嗅ぎ取って寄り集まるのだが、そういう幽霊の中に「そっくりな姿」をする者が混じる。
すなわち、「自分の分身が現れると、程なく死ぬ」のではなく、「死期が近いから、幽霊が集まり、その中に自分とそっくりな姿をした者がいる」と見なす方が正しいと思う。
時々、私は「自身の死期が近い」と感じるのだが、これはガラスに映る私自身の他に、多くは反対側の位置に、「もう一人の自分」の姿を発見することによる。
この時期で言えば、同じサングラスをかけマスクをしている。そしてほとんど同じ服装をしている。