◎地名に歴史がある 「岩手県門前寺」編
昨夜、母方の祖父の夢を観た。長い夢で、自分の目を通して見た祖父の半生を追う夢だった。
その祖父が居を構えていたのは、岩手県の中央にある門前寺というところだ。
昔は「鵙逸」と呼ばれた地で、これは江戸期奥州道中の「道中路程図」などにも必ず出て来る。
この地を分岐として、二戸・八戸と進む道と、西に逸れて出羽秋田方面い向かう道に分かれるためだ。
元々、奥州道中の盛岡から先の行程は、市内上田から四十四田ダムの東を通り、鵙逸(門前寺)に向かう道筋だったらしい。
その付近で育った当方ですら、奥州道中は今の国道四号線のことかと思っていた。
最近になり「門前寺は何故に門前寺なのか?」と疑問に思うようになった。
門前はそもそも神社寺社の門の前のことだ。
それなら「門前町(街)」はあっても、「門前のそのまた寺」ってどういうことなのか。
ちなみに、この地域には周囲から人が集まるような大きな寺や神社は無い。
「鵙逸」から「門前寺」に向かう間には何があったのか。
この理由は割と簡単に分かった。
「鵙逸」は「もずいち」と読むとばかり思い込んでいたが、「もんぜじ」という読み方があり、むしろそちらの方が古いらしい。音の感じからは、アイヌ語起源だと思う。盛岡の北側にはアイヌ語起源の地名が沢山ある。たぶん「mon-geni-zhi」で「geni」は「小さい」の意(この辺はすっかり忘れたのでテキトーだ)。
当地の豪族のはしりが鵙逸左衛門次郎で、この人物が鵙逸館を拠点とした。この「もんぜじ」が何時しか「もんぜんじ」となり「門前寺」という地名に転化した。
地元の者でも全然知らぬ歴史なのだが、知れば、もっと自地域に愛着が沸くと思う。
母の生家は門前寺の旧家で、明治初年頃に建てた家に今もそのまま住んでいる。そろそろ昭和百年だから、明治初期なら築170年だ。古民家として文化財級だが、こういうのを知られて、うっかり県や国の文化財指定を受け入れると、改増築が出来なくなり不自由するそうだ。維持費は総て個人負担。
当たり前だが、戦後の農地改革で土地の大半を取られた側だった。
母と一緒に墓参りに行き、「昔はどれくらいの田畑があったのか?」と訊くと、母は「戦前は北上川までが全部おらほの田圃だった」と答えた。その時、立っていたところから北上川は1.5キロは先。
祖父は恐ろしいほど眼光が鋭く、頭の切れる人だった。
ニューギニアの島に従軍したが、日本兵が二万五千だか三万人だかいた島がオーストラリア軍に「山のかたちが変わるくらい」砲撃されたそうだ。
穴倉に籠っていれば、もちろん、アウトだったが、たまたまその時、祖父は斥候として海辺にいた。砲撃を避けていると、豪兵がどんどん上陸して来たので、海の中に逃れ、岩陰に隠れていた。
三日三晩海水に浸っていたが、ついに体力が切れ、浜に上がって倒れているところで、豪兵に見つかり捕虜になった。
戦闘直後ならすぐに銃殺されていただろうから、じっと隠れていたのは正解だった。
その時、生き残っていたのは千五百人で、翌年までその島の収容所で暮らした。その間、およそ千人が死に、引き揚げ船に乗れたのは五百人だけだったそうだ。
母が父親の復員の日を憶えており、昭和二十一年に父親(私には祖父)が家の前に立ったそうだ。
父親は玄関の前に立つと、長い間、自分の家を眺めていたらしい。
「ようやく帰って来た」という感慨があったのだろう。
母と叔母がそれを見付けたが、叔母は最初それが父親だとは分からなかった。それほど薄汚れてボロボロだった。
叔母は急いで母親の許に走り、「家の前にほいどが来ているよ」と伝えたとのこと。ちなみに「ほいど」は「乞食」のこと。
祖父の没後に聞いたが、祖父は「戦争で生き残るには頭が必要だ」と語ったらしい。「敵の撃つ銃弾の弾道を考えて、それが当たり難い方角に前進出来ない者は皆死んだ」。
実際に体験し、生き残っている者の言葉だけに重みがある。
その祖父は復員後、また農業を再開したが、昭和二十年代に「農家はただ作るだけではダメだ」と思うに至った。米だけに頼らず、商品作物を作った上で、その販路までを見通して生産する必要がある。そこで祖父が始めたのは雁食(黒豆)の栽培だった。
さらに祖父は「農家の発想だけでは足りない。商人(ビジネス)の感覚が必要だ」と思うようになる。
祖父の凄いところは考えるだけでなく実践してしまうところだ。祖父は財産も人脈も持たぬ商人の許に長女を嫁がせた。
それが父。父方の祖父は農家の「オンズカス」(分家)で、土地を持たぬから商売を始めたばかり。
母は地主の娘から、萬屋の嫁に押し込められたので、たいそう苦労したらしい。実際、三十歳頃に病気をして長く入院した。
祖父と父の発想は昭和四十年代から五十年代には、まさにあたりに当たり、毎年毎年、取引が倍々に増えた。
この時期の「岩手の(または東北の)黒豆」商なら「ああ、ウチのことだわ」と思う。最大時には貨車15両で運んだ。
おかげで、私は小中高と11月から12月の記憶が「黒豆の俵を担いだ」記憶しかない。いやはやしんどかった。
祖父の夢を観たばかりなので脱線した。
当方の人生で会った人の中で、「この人は頭が切れる。俺は到底及ばない」と思ったのは二人だけだ。
早大の社会学の浜口先生と、この祖父。
他は「それって、机の上の話だよね」と鼻で笑えるが、この二人は次元が違う気がする。
祖父は立っている姿が怖かった。
「孫だから」というわけではなく、他の人も皆同じような印象を抱いたらしい。皆が「怖かった」と言っていた。佇まいに凄味がある。
背丈が165㌢くらいしかなかったのに、祖父は異様に長身に見えた。
歴史には光と影がある。
祖父は斥候で、かつ狙撃兵だった。
日本兵が玉砕した島にいた生き残りであると同時に、豪兵を数十人は狙撃していると思う。「腹を括って撃つ」という場数を踏んでいないと、あの凄味は出ない。
(ここで脇の電話がチリンと鳴った。いつも記す通り、この電話は回線が繋がっていない。)
◎追記)竈神の納めどころ
今、人生の断捨離を進めているが、この竈神の納め先が分かった。母の生家は築170年くらいだから、この家の土間の上に飾れば見栄えがしそうだわ。
この竈神自体は北上(仙台領)の旧家のもので、このサイズならひとつに郡に1、2軒くらいの豪農の家のものだ。確か弘化から嘉永くらいに作られており、180年くらい前のものなので、時代的には概ね合っている。
骨董・古道具的な価値では、品数が少ないので相場が立たないが、買った時には五万前後ではなかったかと思う。これを掲げていた家の資料を失くしたので、資料的意味が損なわれたが、二百年近い前なら炭素測定で計測できるのでは無かったか。
竈神は主に仙台領の文化だが、南部領内でも散見されるから、文化の剽窃には当たらぬと思う。県北の実家の近くでも、畑から出て来たことがある。
これと、木箱一杯の古銭を贈呈すれば、「旧家のお宝」として後の人がかなり楽しめる。でも放り込んだ犯人は当方W。
東日本の各地で、色んな遺跡や城跡、寺社神社の地中から古銭が出て来るのだが、そのうちの何割かは当方が撒いた。五千枚とは言わず境内の土中に差した。
「少しは意味を考えろよ」という示唆のつもりだが、文化破壊になりかねないかもしれん。
だが、歴史を学んでいれば、その場その歴史に合っているかそぐわぬかはすぐに分かると思う。と言うか、それくらい分かれよな。
「富祷(トウ)銭」は貨幣なんかじゃねえぞ。