◎古貨幣迷宮事件簿 「盛岡藩のお膝元」
私の郷里は岩手の奥州道中の馬替所のひとつで、昔は「馬場街」と呼ばれた地になる。中世から昭和にかけての長きにわたり、姫神山は山岳信仰の拠点で、その西側の出入り口が、この馬場街だった。
明治の御一新の前には、馬替所であると同時に宿屋を供えていたようだから、もはや「宿場」と呼んだ方が良いのかもしれぬ。村外れにある熊野権現の後ろには、山伏たちが暮らしていたらしき住居跡があり、今は畑だが、あちこちからかわらけの欠片が出土する。
昭和四十年台でも、奥州道中(四号線)を山伏(修験者)たちが多数往来していた。
昔からそんな交流地点のひとつだったから、割と古いものが残っており、私の家にも神棚には刀が掲げられていたし、陣笠も残っていた。
最初の家は明治風の商家づくりで、二階に上がる階段の下が物置・納戸になっていた。
このスペースには固有の名称があったはずだが、その呼び方はもう忘れてしまった。
この階段下を使うことは殆ど無かったのだが、私が小学生の時にふと思いつき、扉を開けて中に入ってみた。すると、その階段下の奥には、四五十センチ四方の木箱が置かれていた。今思えば、ちょうど銭函のサイズだったと思う。
その箱を開けると、古銭が五キロくらい入っていた。寛永銭や天保銭など穴銭が中心で、その中には両手でひと掴みくらいの「絵柄のついたお金」があった。
要するに絵銭の類だが、この絵銭類は厚肉でぼってりした品が多かったので、恐らく面子銭の類だったと思う。大黒や恵比寿の図案が多かったように記憶している。
高学年の時に、「どれくらいの価値があるのだろう」と思い、東京の業者に送ってみたのだが、大した金額にはならなかった。一度にひと掴みずつの古銭を送ったが、一回に付き千円にも届かなかったと思う。寛永銭などは、ひと山幾らの値だろうし、たぶん、絵銭の方は見て見ぬふりをした。
場所が盛岡藩のお膝元だっただけに、今にして絵銭の内訳が知っておくべきだったと思う。何せこの地は絵銭の宝庫だ。
ま、当時の私はまだ小学生だっただけに、さほど悔しくはない。
一方、母の生家は門前寺という地だったが、ここも奥州道中の拠点のひとつで、明治以前の道中図には必ず記載がある。地名を鵙逸(もずいち)と言った。かつての奥州道中は、今の国道四号線とは異なる経路を辿るのだが、この鵙逸はちょうど昔の奥州道中と、今の四号線とが交わる地点付近になる。
母の生家は古い農家で、終戦前には「畑の真ん中に立つと、北上川までの数キロの土地が全部自分の家のものだった」と母が言っていた。
家は今もあるが、築百数十年は経っている。天井がやたら高く、それだけに冬にはやたら寒かった。
この家には蔵が幾つかあり、その中のひとつには「木箱一杯の天保銭があった」そうだ。この場合、「そうだ」と言うのは、兄から聞いた話で、私自身が見ていないことによる。こちらの木箱は道具箱だったようで、天保銭はざっと四五千枚の枚数になる。
この話を聞いた時には、私は成人しており、「四五千枚の天保銭」が意味するところを承知していたので、すぐに兄やその家の従兄に「それはどこに行ったのか?」と訊いてみた。
すると、その木箱一杯の当百銭は、兄や従兄、そして近所の悪ガキたちが持ち出して、「裏山で手裏剣代わりに投げて遊んだ」と言う。
その時点で、もはや二十年は経っている昔の話になる。どうにもならない。
ほんの四里も南に進めば、盛岡の城下に到達するような場所で、旧家の蔵に眠っていた当百銭を「手裏剣代わりに裏山で投げた」だと。
その話を思い出す度に眩暈がする。
今、改めて絵銭類を手に取ると、階段下の納戸にあった「面子銭」や、「数千枚の天保銭」のことが頭に思い浮かぶ。
ちなみに、母の実家からは近代貨は山ほど貰った。箪笥を開けると、近代貨なら引き出しの奥に幾らでもあったのだ。
寛永銭の話は聞いたことが無いから、もしかすると蔵のどこかに眠ったままなのかもしれぬ。
子どもの頃、母方の祖父が「明治の五十銭銀貨を神棚の奥に仕舞う」夢を時々観たが、母が亡くなる前にも同じようなことを言っていた。
「もし私が死んだら、神棚のここを開けて見なさい。そこにお祖父さんが孫たちのために仕舞っているものがある」
母が亡くなった後に、伯父たちにそのことを伝えたが、別段何もなかったようだ。
ま、家系の筋が違うので、確かめたり、検めたりは出来ない話だ。
この話とは関係ないが、少し出品点数を追加し始めた。消息不明の品を多数出しているので、どこまで進められるかどうかは不明だ。
注記)いつも通り一発書き殴りで推敲や校正をしない。不首尾はあります。