日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎一年がかりで終息(651)

◎一年がかりで終息(651)

 先日、八幡さまに参拝した折に「女」の気配が出ていたのだが、昨日になり左肩から背中にかけての張りがしんどくなって来たので、病院の帰りにお寺か神社に向かうことにした。八幡さまの入り口で拾ったかもしれんので、この場合は別のところになる。

 「お寺と神社のどっち?」と問うと、心の中に「神社」という答えが浮かぶ。

 既に三十を回っていたので、そもそもお寺は四時台に山門が閉まるところが多い。

 久々にトラの神社に行くことにした。

 

 車を運転しながら昔のことを考えた。

 三十歳を過ぎた辺りで、変事が相次いだので苦慮していたが、知人が霊感教会のO先生を紹介してくれた。ちなみに、O先生は「壷」を売ったりはしなかったので、念のため。

 その頃の変事というのは、例えば「勝手に棚から物が落ちる」「ひとりでにドアが開閉する」「開かなくなる」「電気製品が誤作動する」みたいなことだ。誰もいない閉め切った部屋で、壁にぶち当たる勢いで扉が開く。あるいは、鍵がかかっていないのに、扉が開かない。引っ掛かっているわけではなく、扉全体が岩に貼り付いたように動かない。

 私の時だけ自動ドアが開かない。他の人は普通に通れるのに、私の時だけ反応しない。それとは逆に、通る人がいないのに自動ドアが勝手に開閉する。

 ま、最後のはセンサーの誤作動など機械の不調が原因のこともある。

 少し前に、車のミッションの具合が悪くなったので、ディーラーの営業所に行ったが、自動ドアの前に座っていると、五㍍先の自動ドアが繰り返し開閉した。かつてのことを思い出しドキッとしたが、車が通る道路脇にある店だから、センサーが色んな信号を拾う。

 ともあれ、三十幾つの時に考えたことは、テレビやエアコンがバチバチと電源が入ったり切れたりするのでは煩いし近所迷惑だということ。毎日がその調子だから困り果てていた。

 O先生の前に座ると、開口一番に先生が言った。

 「あなたは神霊体という性質を持つ人です。生まれつき霊との関りが深い。なぜそうなのかと言うと、これまで繰り返し山伏の人生を送ったからです。志の半ばで死んだことがあり、今もその影響がある筈です」

 この時には、少なからずドキッとした。

 これはここに幾度も書いたが、中学生の時に夢を観たことがあったからだ。その夢は「近所の家の庭石(大岩)の前で山伏が倒れて死に、家の者が困ってその石の前に埋めた」という内容で、目覚めると私はすぐに母にそれを話した。母はそこの家の人に話をしたが、すぐに私が呼ばれ、その家の人と一緒に大岩の前でご供養をさせられた。夢の内容はまさしくそこで実際に起きたことだったからなそうだ。

 自分がなぜそんな夢を観るのかが分からなかったが、O先生の話を聞き、納得したところがある。「あれは名も知らぬ山伏の話ではなく、自分自身のことだったか」と閃いたからだ。

 その後、盛岡の八幡さまで祈祷を受けると、変事は鎮まった。もちろん、消えて無くなりはせず、時々、一時期に集中して現れる。抑えることは可能だが、消滅させることは出来ないようだ。だが、何が起きているのかを心得ていれば、他者に頼らず己の手で事態を収束させることが出来る。

 昨年の十一月以来、稲荷眷属の障りに始まり、長きにわたり散々苦しめられたが、どうやらほぼ一年でそれも終わった。前述の通り、一度取り憑かれると、完全には除霊浄霊などは出来ぬから、影響が戻って来ぬように自分の力や意識を強く持つ必要がある。

   

 とりあえず、自身の状況を判断することに慣れ、また正確になって来たことは疑いない。この日、神社で確かめるべきことは、総て自分自身で確認出来た。

 眼で「かたち(可視域での)」を追わなくとも良くなっていることは助かる。

 「ここにこういうのがいて・・・」という筋は、あくまで想像であり妄想の域なのだが、それと現実に起こること、見えることが一致して来れば、それでよい。

 求めるべきは「説明」ではなく「解決」だ。相手がどんな性質のものであろうと、悪影響をもたらさぬよう「分限を教え、境界を引く」ことが出来ればそれで良い。

 

 O先生は「あなたのような人は、早いうちに修行に入れば、今度は世の人を助けられるようになる」と言った。中学生くらいから修行の道を志せば、二十年くらいで霊力と念力のバランスが取れるようになる。

 「今度は」というのは、「前には出来なかった」という含みもある。

 だが、それを聞いた時に思ったのは、「俺はもう三十だ。今さら若い頃から修行してれば、と言われても困る」ということだ。

 祈祷師や占い師にはなるつもりがないのだから、人助けの方法を身に着ける必要もない。と言っても、自分自身の問題解決を行う必要があるわけだが、これは自分なりの対処法を身に着けてゆく外はない。そうなると試行錯誤の積み重ねによる外はなく、修行するより時間も手間もかかる。

 

 さて、この日の神殿の前では「ここで降りて先に進めば渦のような穴があるからそこに入ればよい。それが嫌なら私の傍にいても良いが、二㍍以上離れていろ。寄り掛かられると私も苦しい」と告げた。

 肉体が滅んだ後も、自我が完全に消えるまでには何がしかの時間を要する。その時には、生前の理性などは持たず感情だけの存在になっている。

 その時に、溺れる者がひたすら掴むものを探すごとく、「生者に取り憑いたり、他の霊を狩ったりする」ようになってはならぬと思う。

 そのためには、生前から「因果応報の理を知り、自力更生を心掛ける」べきだ。

 他者を頼っているうちは、本質的な解決には近付けない。

 

 さて、僧侶だの稲荷眷属だのの「障り」の支配下から脱するのに、ほぼ一年掛かった。

 障害者なのであくまで「それなり」の域だが、体調は一年前より良い。たぶん、今月来月は生きていると思う。

 あとは今回のように、普通の幽霊が寄り憑いて来るのを、その都度下ろすだけ。

 その意味で、「憑依された時の体感症状を覚えた」ことと、「視覚に頼らなくとも 良くなった」ことは、かなりの進歩だと思う。

 「今の自分はこういう状態だ」と推測したことが、見聞きするものと一致するようになった。相手が分かれば、自ずから対処法も見えて来る。

 

 画像はTPOが合わぬので、普通の可視域の人には難しいと思う。逆に「だから公開できる」という面もある。私がいつも顔を緑色マスクで隠すのは、そこに別人の顔が出ていたりするからだ。気色悪いし、人によっては見るだけで影響が出る(通じる)ことがある。

 

追記)ちなみに、肩と背中の「張り」は一日で消えた。もちろん、居なくなったりはせず、女は傍にいる。差し障りがない分には、特に気にはならない。どうせ常時、五六体が近くに立っているので、今さらひとつ二つ増減したところで変わらない。