日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎同じ相手ではない

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このところ起きていた変事

◎同じ相手ではない

 昨夜、腹具合が悪くなり、夜中に数度吐いた。

 さしたるものを食べていないので、今も原因は不明だ。

 なまじっか、「いずれ起きるかも」と思っていただけに、「やはり来たか」と思ってしまう。

 

 そこで先ほど、その「思い当たるふし」を探してみた。

 まずは先月二十五日の蕎麦屋だ。

 これより前に、あるお寺に参詣したのだが、その敷地の隅にある鳥居が見えたので、そこで手を合わせたのだが、ふとそこが「稲荷神社」であることに気付いた。

 私は昔から稲荷とは相性が悪く、近づいただけで気分が悪くなる。

 すぐにその場を離れようとした、ちょうどその時に、右の肩から頭にかけて、「蜘蛛の巣がかかったような感触」を覚えた。

 手で振り払ったが、蜘蛛の巣や糸らしきものはない。

 「不味いぞ。拾ったか」と思ったが、もはや後の祭りだ。

 稲荷は正一位だったか従一位の位の高い神社だが、民衆に近い立場のようで、周囲に良からぬ霊を集める。普通の人は問題ないが、私は生来、この方面には敏感な性質だ。

 さらに一度「心停止」を経験してからは、先方からも私のことが見えるようになっているらしい。外に出る毎に「何か」に寄り付かれる。  

 

 その後、数日してこの蕎麦屋に立ち寄ったのだが、アクリル板に人影(顔)のようなものが出た。妻の姿に重なっているが、妻ではなくアクリル板の上だ。

 もっと正確には、アクリル板に映る私の影に重なっていたのだ。

 

 その後、一週間ほどして、再び同じ地域に紅葉見物に出掛けた。

 そこで珍しく被写体となり、一枚だけ写真を撮って貰った。これも正確には「妻が勝手に撮った」ものだ。

 すると、私のお腹に煙玉が写り、近くには男の影が浮かんでいた。

 

 「体に煙玉が出る」のは、私にとっては「病気の兆候」を指すことが多かった。

 煙玉を検証すると、確かに「説明のつかぬ煙玉」のようなので、尚更そう思う。

 実際に調子が悪くなってみると、「やっぱり」と思い当たってしまう。

 

 つくづく思うが、予知・予見みたいなものは無い方がよいと思う。

 「いつ死ぬか」みたいなことを予見したら、「何をやったところでそこまで」みたいな考え方になってしまう。

 良かれ悪しかれ、明日のことなど分からぬ方が、明日に希望が持てるような気がする。

 

 私を含め、誰もがいずれあの世に取り込まれる。

 私が「ある日突然、急死」したら、「あの世に捕まった」という意味だ。

 占い師や霊能者(本物の)の最期は決まっており、全身が腐って死ぬか、事件・事故で死ぬのが通り相場となっている。

 私は普通人なのに、たぶん、同じような死に方をすると思う。それだけ深く関わっている。

 

 このところの不審な出来事については、毎日以下のように祈願し、ご供養をしている。

 「私には助けられないので、私はともかく身近な者に障りを与えるな。その代わり、貴方のためにご供養・お焼香をして慰める」

 

 先月の者と今月の者は、それぞれ別の者たちだ。

 この手のことは頻繁に起きるので、別に騒ぐことも無いが、そうでなくとも闘病生活を送っており、自由に使える時間が少ない。

 様々な相手が寄り付くから、ご供養が必要なのか、ご供養をしてくれるから寄って来るのかはよく分からない。

 今は経験が増えるにつれ、姿が見えず、声が聞こえなくとも、「そこにいる」気配が分かるようになって来た。

 あの世の者(幽霊)は、「眼で見て、耳で聞き、心(気配)で知る」ものだ。

 他の者にとっては、「気のせい」や「錯覚」の域に見えるかもしれぬが、私は画像だけでなく、耳で聞き、気配を知っている。

 あの「蜘蛛の巣」の感触の悪さと来たら、何とも表現に困る。

 

 こういうことは「受ける」ためにやっているわけではなく、「自身が生き残り、何がしかの作品を残す」ためにやっている。他の者がどう解釈しようが、そんなことはどうでもよい些細なことだ。