日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎古貨幣迷宮事件簿 「鉄銭の中から出て来た銭」

f:id:seiichiconan:20211115153128j:plain
f:id:seiichiconan:20211115153138j:plain
f:id:seiichiconan:20211115153148j:plain
鉄銭の中から発見した品(1)

◎古貨幣迷宮事件簿 「鉄銭の中から出て来た銭」

 ひとは多く生まれ育った地に関心を持つ。

 鉄銭が大好きな者でも、さすがに地元のものに集中したいから、当四鉄銭はともかく、一文銭の場合は「盛岡から北で出たもの」と限定した。

 これはそれより南では、石巻銭に占められてしまい、八戸銭などが埋もれてしまうからだ。仙台のものは地元の人にお任せして、自分は時間とお金を集中させよう。

 こう考えたわけだ。

 皆が概ねこう思うから、仙台と南部の連続線と不連続の境目について、あまり深く追究しない。ここは相互交流が重要だと思うが、現実的な問題があり、なかなかうまく行かぬ。

 こうして、鉄一文銭については「県北に限る」を旨として来た。かたや当四銭については、さまざまなバラエティが割と見られるから地域を区切ったりはしない。

 当四銭は種類が多いので、分類が楽しめる。このため、ウブそうな売り物があれば、それなりの値が付く。

 

 さて、そんな風に入手した鉄銭を取り置き、たまに取り出しては眺めていたが、時々、変な品を発見する。ここではそんな例を挙げてみた。

 ①舌千小字(様)、②舌千大字(様)

 これらは「変な品」ではないが、選り出しにくいという意味になる。

 鉄一文銭は抜けが悪いことが多いので、面背の状態がよく分からない。そこで、ある程度存在数がありそうなのに、現実には探せない品がある。

 そんな中で、八戸の舌千小字は割と選り出せる品だ。選り出し以前に、八戸銭を入手する必要があるわけだが、鉄銭を丹念に眺める者はそうそう居ないので、割とウブ銭が残っている。

 この舌千小字は、面文の書体の特徴が著しく、割とそれが分かる品が多いから、ルーペがあれば判別出来る。周囲には密鋳背千だらけだろうから、その中にあると、多少、煩雑かもしれぬ。

 一方、舌千大字は小字のようには行かない。背の舌字は消失していることが多いし、面文にそれと分かる特徴はない。母銭であれば、微妙な書体の違いを窺い知ることが出来るわけだが、鉄銭ではそれも見えぬ。

 癖を覚えるためには、最初は「見方に慣れた先輩」から一枚譲って貰うのがよい。

 舌千大字のカタログ評価がかなり高額なのは、「探し出せない」という事情による。

 しかも、石巻背千の間に混じってしまうと、錆落としから始める必要が生じ、正直ウンザリする。

 ちなみに、「舌」は複数の変化があるから、銭譜掲載の型だけを覚えていると判断を過つ。これに限らず八戸銭は、砂型のつくりが粗雑なので、面背の変化が多い。

 「小字」「大字」は、元々「小様」「大様」と分類されていたのだが、二十年位前にこっちの呼び方の方が多くなった。

 しかし、「銭径そのものが違う」という認識が「選り出し」に役立つのに、何故こうしたのだろう。八戸系統の一文銭には、十字(千)銭や葛巻小字背千、そして舌千類があるわけだが、出発点の銭径がそれぞれ違う。

 書体自体、十字(千)銭と舌千大字はよく似ているがこれは元の出発点(石巻銭)が共通の起源になるからだ。葛巻小字背千とは出発点自体が異なる。

 あるいは、前提として「大字背千」に範を取ったと掲げれば、鉄銭を見ようとする者のために標識(目安)を立てられる。(この辺は石巻銭を調べていないので、確たることは言えぬ。)

 

③小型の念仏鉄銭

 目寛見寛類の山の中から発見した。特に流通しておらず、銭径が銅銭に比べかなり小さいので、目寛見寛座のものではないかと思う。

 銅銭にも小さいものがあるが、輪幅と内輪幅の比がことなるため、通常サイズの銅銭を摸した品だと思われる。

 これと同時に「千里の駒」の鉄銭(元々が小型銭)を拾った。

f:id:seiichiconan:20211115153635j:plain
f:id:seiichiconan:20211115153647j:plain
鉄銭の中から出て来た品(2)

④木型寛永

 最初に目に付くのは地金だ。クロム分なのか不純物を含み、通常の砂鉄系のづく鉄製ではないように見える。軽米大野の掛け仏に同じような金質のものがあるが、外側の煤のような汚れを取り去っても表面の黒味が消えぬ。

 鉄自体はほとんど誰も研究していないようで、この件に関する対話はどこでも成立しなかった。

 岩手県内に刀鍛冶が数人いたのだが、いずれも「密鋳銭を取り置き、それを溶かして素材としていた」と聞く。なるほど、この素材であれば練の良い鋼が出来る。

 次が銭径だが、銅の背文銭よりもひと回り大きい。一文銭というより、むしろ当四銭のサイズに近い。背面は崩れているが、かすかに波の断片が見えるので、当四銭を作ろうとしたものかもしれぬ。

 面文の書体は特異で、これに該当する、もしくはこれと似た銭が無い。強いて言えば背元銭だが、銭径がまるで違う(大きい)。

 寶字のぐねぐねという曲がり具合が際立つが、まるで木型に手で彫ったかのような印象だ。

 見栄えのするコレクションにはならぬが、「歴史の証人」のひとつだ。

 北奥には人知れぬ歴史が隠れている。

 いつも思うが、収集家は「手の上の銭」ばかりを論じるが、多くは形態分類の話に留まる。「どういう人が作ったか」「どんな工夫や苦労があったか」まで考えるようになると、収集は百倍も楽しくなると思う。

 

 脱線するが、以下は例え話。

 慶応三年に、浄法寺山内では当百錢の密鋳を本格的に始まった。まさしくその月に家老の楢山佐渡は病気を理由に家老職を辞し、川井村にて静養している。

 なお、この川井村は一戸ではなく、閉伊の川井村のことで、かなりの遠隔地になる。

 さて、佐渡が家老に復職するのは、銭の密造を終えた時と一致する。

 要するに、山内座の密鋳を「楢山佐渡の私鋳」と見なすのは表向きの話で、実質的に「盛岡藩が銭の密造を行った」ということだ。藩が主体的に動いているのを隠すために、「佐渡が藩とは関わりない状況」を演出したということになる。

 このことは盛岡藩の記録には当然残っておらず、郷土史家は誰も知らない。

 かたや古銭収集家の一部は、楢山佐渡という名前を知っているが、何故に家老が贋金を作らねばならなかったかなどの背景のことは何一つ考えない。

 誰がどういう事情でどのように作ったかをしれば、出来た銭にも自ずからそれを反映する特徴が出る。

 これを怠ると、「宮福蔵の作品では絶対に万枚の桁の貨幣は作れない」ことに行き着かぬことになる。

 

⑤密鋳鉄銭座の文久銅銭

 県北出の当四鉄銭の間に混じっていた文久の銅写しだ。

 文久銭は本来「横鑢」で、銭に棹を通し、鑢(粗砥)で抑えつけた上で棹を回して輪を整える。だから線条痕が真っ直ぐになり乱れが少ない。

 これに対し、密鋳銭では、多くの場合、銭を固定して鑢を動かして輪を整える。結果的に不揃いの斜め方向の線条痕が多くなる。

 手で掛けるから状況により方向が変わり、縦方向に見えたり横の筋が入ったりもする。

 まるで焼け銭のようだが、写しである。

 砂は質の悪い山砂で、概ね密鋳銭座のものだろう。この手のは独りで流通したりせぬから、鉄の密鋳銭座で作成したと思われる。何を思って作成したのかは定かではない。

 良いのは砂が付着したままであることで、成分によっては、「どこで採取した山砂か」が分かる場合もある。

 良質の硅砂など望むべくも無いので、それに似た山砂(硅砂含む)を鋳砂に充てたのだろう。

 出来が悪く見栄えもしないが、証拠品としては十分な内容を持つ。

 

注記)一発殴り書きで、推敲も校正もしない。不首尾は想像、推測で補正にて。