◎幽霊の寄り付き方(続2)
三年前の出来事解析の続編になる。
九月八日に、ある温泉施設で異変が生じたので、すぐにご供養を始めた。
具体的には、お寺、神社に連れて行き、そこで放すというやり方だ。
きちんと、お務めをしている神社寺社では、霊気の流れが出来ているので、それに乗れれば自然と先に進むことが出来る。要は、幽霊は同じ思いにとらわれて一つ所に留まっていたのだから、そこから離すことで自身の境遇を悟らせる。そんな方法だ。
私のことは先方からよく見えるようなので、特に特別な呼びかけ(祝詞)などは必要が無い。既に半分は仲間だ。
頻繁に老人の出た地点に向かい、そこからお寺、神社と回る。
寺・神社の双方に行くのは、生前の習慣により、幽霊によって馴染みのある無しが違うからだ。もちろん、これは憶測だ。
九月十日には、施設訪問が遅くなったこともあり、撮影は出来なかった。
空気や光の状態と密接に関連しているので、これがぴったり合わぬと写真には捕らえられない。
ただ、かなり不鮮明だが、私の左手首にチェーンのようなものがついているのが見えている。(これは最近気付いた。)
九月十二日にも、同じような回り方をし、最初に施設の前を訪れた。
この時には、私の背後に白い服を着た女が立っていた。背丈の大きな女で、左手(ガラス映像なので左右が逆)の先が鮮明に見えている。私を両手を上に上げているので、もちろん、私の手ではない。
人影自体は別に驚くべきことではないが、ここで眼を引くのは、女の手首と私の手との間に線が走っていることだ。まるで金属のチェーンのよう。
今回初めて気付いたが、この「チェーン」は、十日の段階から腕についていたようだ。
これは見ようによっては、すこぶる気色の悪い状態だ。
自分と、明らかにこの世の者ではないと思しき女とが鎖で繋がれている。
これから自分はどんな目に遭うのか。そんな風に禍々しいことを想定してしまう。
だが、その後何も起きない。
そればかりか、私の周りにいた筈の有象無象の得体の知れぬ奴らが、この日を境に居なくなった。
画像を検索すると、これと同じ感じの「白い服(または着物)を着た女」はかなり前から私の傍にいたようだ。
そうなると判断に苦しむ。
どちらかと言えば「仲間」の方ではないのか?
ちなみに、あの世(幽界)に「守護霊」みたいなものは存在しない。あの世は社会性を持たぬところなので、人と人の関係に例えられるような関りは無い。
ただし、「共感」は同一化のステップとして重要なので、その前段階となる「仲間」のような存在はあるようだ。当たり前だが、手を出して助けてくれることは無い。
「守護霊」は希望願望を基に宗教家が創り出したものだ。
一方、さしたる善霊はいないのに、悪霊の方はいるから、あの世もあまりフェアなものとは言えぬ。
この女の「手」が手に見えぬ人は少ないと思う。肌の色も血色がよく、まるで生きた人の手のよう。
だが、私の手の二倍はありそうなサイズだ。
既に一年以上前から、この「女」は出なくなった。
いなくなってみると、どこか物足りぬ気持になるから、ひとの心は不思議なものだ。
よく考えずとも、あれはこの世の者ではない。
そこに浮かばれぬ老人の霊が留まっていることに気付き、それを連れだしたのは私なのだが、私が救済したわけではないと思う。単に手を添えて連れ出しただけ。
あとはあの世の者(白い服の女)たちの持ち分だ。
今回気付いたことは、次の通り。
施設の前に立った後、すぐさま老人が私について来ていた。
老人の周囲には他の複数の何かがいたが、それも私が別の場所から連れて来た者のよう(概ねN湖)。
その老人か他の者を手に入れるべく、サングラスのオヤジが寄り付いていた。
白い服の女が現れると、他の者がいなくなった。
今では施設の前に行っても変事は起きぬし、声も聞こえない。
こういうことはごく普通に、誰の身の上にも起きている。