日刊早坂ノボル新聞

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◎令和元年秋に起きた出来事(その1)

◎令和元年秋に起きた出来事(その1)

 外出時に撮影した画像を、性質に応じ「旅先」と「煙玉(あの世)」に区分し、ファイルを整理している。たまたま「旅先」のファイルを開ける機会があったのだが、そちらにも煙玉や人影が出ているものが多数あった。

 撮影当時には気付かなかったものが、以後に様々な経験を経ているから、今は気付くようになった、ということだ。

 とりわけ変化したのは、「あの世(ここでは幽界)」の眺め方になるのだが、それを認識せざるを得ぬ状況になったのは令和元年の経験による。今は「旅先」と「煙玉」を統合する作業を進めているが、それによりその当時起きていたことをよりよく理解できるようになりつつある。まだ中途だが、令和元年の九月から十月頃の出来事を観察してみる。

 

1)前段

 「あの世」の解釈は恐らく私独自のものだ。過去の宗教画語って来たこととは関わりなく、実証することが重要と考え、見えたものをそのまま受け取るようにしているからだ。長くなるので詳述は避けるが、どうやら「あの世(幽界)」の実態は「霧」のようなものらしい。湿気(水分)による霧と見た目は似ているが、こちらの霧は人間の眼には見えない。存在はしているが、「人間の可視域の外にある」のが原則で、環境の条件によっては見えることが可能になる。カメラは人間より捕捉可能な光の波長域が広いので画像にのみ写ることがあるし、気温や光の角度、強度によって、朧気に見えることもある。

 下の画像は平成二十七年のもの。国道四号線を南下中に持病の筋膜種(主に脾臓)が痛み出したのだが、不意に「ここに寄って行くと良いよ。治るから」という女性の声が聞こえたので、この神社に立ち寄った。同時進行的にはほとんど異変に気付かなかったのだが、後で画像を見ると、様々なものが現われていた。

 ちなみに、神社に寄り、湧き水(ゆはずの泉)を少量飲んだところ、言われた通りに腹が治った。(その後数か月で、脾臓や胆嚢の筋膜種が完治した。)

 ここで最も眼を引くのは「霧」の現れ方だ。四枚目と五枚目の画像は十数秒の間隔で撮影したものだが、五枚目だけに霧(煙)が立ち込めている。湿気による霧なら、このタイミングで出たり消えたりはしない。

 この直後に、女らしき人影が木陰からこっちを見ていたが、その時点では認識出来なかった。画像を見て初めて起きていた事態が分かったのだ。

 この霧は「この世」と「あの世」を繋ぐ接点であり、ひいては「あの世(幽界)」の物理的実体を意味するものだろうと思う。 

 ひとが「あの世」を目視する機会は少ないが、「いないから存在しない」のではなく、「いるが見え難い」という意味だ。様々な感情やその記憶、それらを統合する人格が朧げな霧の中に隠れている。

平成二十七年七月二十四日撮影(岩手:御堂観音)

2)令和元年秋に起きていたこと

 さて、前置きが長くなったので、本題を手短に記す。

 今回のきっかけは「旅先」ファイルを「煙玉」と照合したことだ。

 これはたまたまSNSに過去の記事が再掲されたことによる。

N湖でのご供養の後に生じた異変

3)駐車場にて(九月二十三日)

 SNSに直接現れたのは①②で、令和元年の九月二十三日に撮影したものだ。

 これより前にN湖を訪れた際に、ある地点に立ったら、ひとの話し声が聞こえた。周囲には誰もいないので不審に思い、写真を撮ったのだが、画像に異変が出ていた。

 尋常ならぬ数の人影だったので、以後は時折、ご供養のためにN湖を訪れることにしたのだ。(週に二度くらいずつ一年以上続けたが、今ではこの地に従前のような「気持ち悪さ」はなくなっているので念のため。)

 これはその帰路にレンタル店に立ち寄った時のものだが、一階の駐車場に車を停めようとした時に、不意に「後部座席に人の気配がある」ことに気付いた。

 バックミラーを見ても誰もいないのだが、確実にひとの気配がした。

 ちなみに、鏡は一般の印象と違い「異変(幽霊など)が映りにくい媒体」だ。これには光学的要因が関与しており、物理的なものだ。ひとが鏡に違和感や圧力を感じるのは、そこに映る姿が「普段自身が思い描く姿とずれている」ことによる。己の姿を直視するのは、実は幻滅を招く怖ろしいことなのだ。

 鏡についてやたら恐怖を煽ることを記す者がいるが、所詮は「その程度(認識不足)」ということ。逆にむしろ一時的だが、鏡は魔を遠ざけるアイテムになる。幽霊にとっても自分自身の姿を直視するのは嫌なことらしい。

 ひと言でいうなら、「何故に鏡を邪悪なものと捉える?そもそも神社の御神体の大半は鏡でしょ」で済む。神社のは金属製だが、意味が変わるわけではない。

 さて、この時、私は手元にカメラを置いていたので、振り返らぬままカメラだけを向けて撮影した。目を向けぬのは、「撮ろう」と構えると写らぬことが多いためだ。

 だが、やはり「何者か」の姿は写らなかった。残念なようだが、具体的に「女が座っていた」となると、良い気分はしないのでほっとした。ちなみに、それが「女だ」というのは、身じろぎを感じた時点で何となく分かる。時には香水の匂いがしたりするし、声を発すれば男女の別くらいはつく。

 ほっとしてカメラを脇に置こうとした時に、たまたまシャッターを押してしまったのが次の画像だ。ここはビルの一階なので直射日光は入らない。日輪でも蒸気玉でもなさそうな数の煙玉が座席のあちこちで出ていた。

 ま、煙玉現象は、基本的に自然現象になる。気温や空気圧、光の当たり方などで画像に残るようになるが、あの世的異変に伴って出現することもある。あの世現象に限って言えば、「付帯的に生じる自然現象」ということだ。

 「窓」の機能を果たすこともあり、中に人影が見えたりする場合もあるわけだが、霊そのものではない。地下室や高山、廃屋などでフラッシュ撮影をすれば、湿気との兼ね合いで写りやすい。これが写ったからといって、何が起きる訳ではない。

 問題は煙玉そのものにはなく、「その背景に何があるのか」ということ。あの世からの何かしらの働きかけが存在し、その付帯的な現象として煙玉が出ているなら、煙玉の有無には関わりない。「働きかけ」の性質の方を見取るべきだ。

 この時の煙玉は「後部座席に女がいる」という認識の直後だっただけに、何かしら関係があるのかもしれぬ。とりあえずは、自分の脚の間から「女」が顔を出さずにいてくれて助かった。でもま、そういうのはホラー映画に任せて置く。

 

 この画像を見て、「この前後に起きていたのは何だろう」と思ったのが、画像検索の動機づけになった。念のため、その流れで「旅先」ファイルも検索することにしたわけだ。

 まずはこの年の九月から十月について限定し、前後の画像を引き出した。

 

4)玄関のガラス戸に映る老人(九月八日)、白い服(着物)の女(九月十二日)

ある日帰り温泉にて

 ③はこれまで幾度も公開して来た。

 前の画像より前に撮影したものだが、ある日帰り温泉施設の前で撮ったものだ。

 この年の春、すなわち平成三十一年の始めに、「その場にいる人の数とガラスに映る人影の数が合わない」ことに気付いたのだが、私自身の姿が映るようなガラスの前に立つと、反射的に写真を撮るようになっていた。

 あの世に関わりそうな画像自体はこれより前から撮影していたが、「ガラスの中にいるこの世ならぬ人影」を意識して撮影するようになったは、実はそれほど昔のことではない。

 この画像では、私のお腹付近に老人の顔が映っている。鮮明なので、「たまたまそこにいた人が入り込んだかも」と考える程だった。数か月に渡り幾度も検証に訪れたのだが、扉の内側には誰もいなかった。

 何年か前にこの施設では事故が起きたことがあり、霊感占い師ならそれとこの老人を結びつけるだろうと思う。だが、そんなことは想像や憶測の域だ。

 ま、ある率直な霊能者は、自身の霊感について、「直感と想像と推測」であると語っていた。本当に眼の見える人は、それが「類まれな能力」だと誇ったりしない。

 そう言う人は「霊能力」という言葉自体も使わない。何故なら「能力」ではなく、個性・個体差の範囲だからだ。近視・遠視は能力ではないのと同じ。誰でも持っているが、それと意識せず、立ち入らぬようにしている。その理由は、「自分が理解できぬものが怖いから認めたくない」ということによる。

 よって、ことさら幽霊の怖さ怖ろしさを語ろうとするのは、表のことしか知らぬ「所詮はその程度の者」ということだ。

 この「老人」の姿は車の中で確認したので、すぐさまその場に戻り、「私についてくれば、お寺か神社に連れて行く。そこで他の者と合流すること。でも、私に抱き付いたりせず、二メートルは後ろにいろよ」と伝えた。

 「二㍍後ろ」は、「直接背負ったりすると具合が悪くなることがある」ためだ。

 どうせ私はN湖でも同じこと(救い上げ)をやっているんだし、今さらひとつ二つ増えたところでどうと言うこともない。

 

 ④はそれから四日後に、再び確認のために同じ施設を訪れた時のものだ。

 老人を無難に連れ出せたかどうかを確かめるのが目的だったが、老人の姿はそこには無かった。

 だが、その代わりに「白い服(たぶん着物)の女」が鮮明に画像に残った。

 とりわけ左腕(ガラス映像なので逆になる)が鮮明だが、この「女」は私とは因縁浅からぬ相手だ。この「女」だけを取り上げても系統的に画像を並べることが出来る。

 背丈が180㌢はある女の人影なのだが、これまで、私の背後に立ったり、背後から私を抱きすくめたりと、幾度も画像に現れた。もちろん、別段画像以外に不審なことは起きなかった。

  あの世には「守護霊」みたいなものは存在しないのだが(生きた人の願望)、仲間のような者や因縁めいた関りはあるらしい。

 この画像の中では、女と私はチェーンようなもので腕同士が繋がれている。

 「互いに宿縁があるぞ」と示していたのだろうか。

 コロナ以後、この「女」の姿を見ることが絶えている。

 「いつも私と一緒にいる」という意識があったのに、今はそれが居ないとなると、何となく心許ない。

(その2に続く)

 

注記)持病有の身にてPCに向き合う時間を長く取れぬ。推敲や校正なしの書き殴りなので、表現のおかしな個所や誤変換があると思う。だが、現状ではこれしか出来ない状況だ。