日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎必ず付帯的な変化がある (一年前の振り返り)

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令和二年十月二日撮影  (今回日付の誤記訂正)

◎必ず付帯的な変化がある (一年前の振り返り)

 N湖に異変を感じ、ご供養することにしたのは、令和元年頃からだ。そのかなり前からこの地を訪れてはいたが、はっきり気付いたのがこの年ということ。

 それなら、二年くらいに渡り、時々、この地を訪れてはお焼香をして来たということになる。(最近、トシのせいか時間の感覚が薄れ、どれくらい過去のことかがあまりよく分からない。)

 

 一年後のこの時点では、カサコソという話し声が無くなり、画像上の異変もさほどのものではなくなっている。もっとも、画像だけ見る分には、何が何だか分からなかっただろうと思う。私は「声」を同時に聞いているから、画像が不鮮明でも「どの位置にどんな感じのがいるか」は想像がついた。

 「声」だけで、それが男か女か、どれくらいの年恰好なのか、また、話の内容から何を感じているのかが察せられる。

 この「声」は家人にも聞こえていたから、たぶん、誰の耳にも聞こえる音だと思う。

 

 さて、「あの世」現象には、多く付帯的な異変が起きる。

 代表的なものは、「煙玉」や「霧(霊界の霧)」だ。目視出来ぬのに、画像には白い煙が写っている。これは時として霧のようだったり、雲のようだったり、玉のようだったりする。

 ただし、例えば「煙玉」そのものが「あの世」現象だというわけではない。疑似的な自然現象は多く見られ、むしろそれが大半だと言ってよい。光や水蒸気といった要素の関係で発生するわけだが、純粋に自然現象であることが八九割を占める。

 一方、人影が姿を現わしたりする時にも、往々にして煙玉が出る。家族で旅館を訪れた時に撮影した連続画像があるが、最初に小さな玉がひとつ二つ現れたかと思うと、それが五個十個に増え、次に複数の顔が現れた。

 そうなると、こういうものは「付帯現象のひとつ」だと見なす方が合理的だと思う。

 

 三番目の画像は、日陰から日陰を撮影したものだが、うっすらと玉が見える。

 レンズのプリズム効果でないのは確かで、この日は晴天だった。湖があるから、湿気の影響も棄却出来ぬが、出来にくい環境であったことは確かだ。(結論はなく、「よく分からない」だ。)

 この画像のガラス窓を確認すると、私がいた休憩所の梁を回るように煙の筋が二本走っている。これはこの地では、時々見られる現象だ。

 (ちなみに、これと同じような煙の筋が撮影された場所は、岩手の御堂観音だ。)

 さらに、右側には、かなり薄いが「女」の視線(眼)が出ている。

 画像を拡大してみると、これが見える人は割合いるのではないか。分かりやすい構図になっている。

 

 この日は、この後、いつも参拝している神社に向かったのだが、例によって、右腕が膨れて写っていた。夏の終わりから秋にかけて、この「右腕だけが膨れる」現象が起きる。ガラスの継ぎ目で、ガラス面が歪んでいるから起きているのではなく、片側のガラス一枚の中で、右腕だけが膨れる。

 撮影位置はいつも同じだから、数百枚に一回の割合で起きる出来事だ。

 

 この理由は正直なところ「分からない」。なお、適切な因果関係が立証できぬものは「(今のところ)分からない」と見なすのが、合理的であり科学的な判断だ。

 ただ、その前後に「人影」が写るケースが時々あるところを見ると、「何者かを連れて来た」可能性はあると思う。

 

 幽界の住人(幽霊)は、「不意に現れる」ことは少なく、多く前触れを伴っている。

 日頃より「近くに居るのに接点が薄い」わけだから、それなりの支度や準備が要るのかもしれぬ。