日刊早坂ノボル新聞

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◎後をついて来る女 (一年前の振り返り)

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令和二年九月十三日撮影

◎後をついて来る女 (一年前の振り返り)

 難易度の高い画像で、「当人は瞬時に分かるが、他の人にはなかなか理解出来ない」というパターンだ。昨年の画像だが、こういった事情もあり、ほとんど解説らしい解説を付けなかった。だが、ひとまず良心的に少し補足しておくことにした。

 

 最初の図は、1)幽霊をほとんど見ることが無い人、と2)時々、幽霊(または人影)を見る人の違いだ。

 これまでにも幾度か説明して来たので詳述はしないが、要は、1)物(に反射した光)を見ている者には、ほとんど幽霊は見えない。2)物からの反射光だけでなく、中間の光の変化を見る者は、そこに無い筈の人影を見ることがある。

 要は「見る位置が違う」ということで、後者は「空気(気配)を見ている」という状況に近い。

 

 さて、昨年の今日(九月十三日)、いつも通う神社、いつもの位置で撮影した画像が掲示のものになる。

 神殿前に定位置が四つあり、これはその内のやや右後ろから撮影したものだ。

 いつも同じ位置にするのは、「内外の配置が一定であれば異変を発見しやすい」という理由だ。

 被写体は私自身で、これは自分に起きている異変を知るためだ。何かしら変化が生じているのであれば、それなりの理由がある。それを承知しているのといないのとでは、身の処し方が変わって来る。

 もし良くない状況が見えれば、すかさず手を打つことで、状況は少なからず改善される。神仏に願って「待つ」よりも、自ら手立てを考え、実際に行動に移すことの方が、事態の改善には役立つ。まさしく合理的な判断だ。

 

 私の右後ろに「女が立っている」ように見える。姿自体は、ほんのわずかなシルエットに過ぎず、「光と影」の「ささいな揺らぎ」に過ぎない。

 この画像だけ見ると、殆どの人が「気のせい」だと言うだろうし、これのみを見せられれば、私もそう答える。

 しかし、この時の私はすぐに「女がついて来た」と見た。

 その理由は「過去に幾度か同じ者を見ている」という単純なものだ。

 

 この女は最初、N湖岸で見た。警察の舟艇が岸に着こうとしている時に、湖岸の草叢の中に立っていた。黒いシルエットだけだが、髪形や服装は想像がつく。

 その頃は、N湖を訪れる度に「声」が聞こえていた。(このため頻繁にその地に通い、ご供養を施した。いまでは「声」は聞こえぬことを明記しておく。)

 そして、私は家の中でこの女の姿を見た。時々、「カウンターの陰に女が立っている」という記録を残している筈だが、これは「着物の女」より前にいた者だ。

 こういう経緯があるので、「何となく人影が見えるような気がする」時点で、髪形や服装でそれと推測できるようになる。

(もちろん、間違いも時々ある。人間には特別な霊能力など無いのだから当たり前だ。人は眼で見て、耳で聞き、頭で判断する。)

 

 「女」は両眼が眼窩から飛び出ているように見える。これはよくあるのだが、多くは縊死した者だ。この場合、圧力により目が飛び出て、顎骨が緩むことで舌が垂れ下がることが多い。自死する者は、多く死の直前の思考を反芻しており、結果的に死に間際の姿を留める者が多いようだ。

 世間の所謂「心霊写真」にも「目玉の飛び出た怨霊」みたいな画像が紹介されたりするが、あれは自死した者で、死に間際の心理のまま彷徨っているということ。

 理由なくそれが写っていれば本物の幽霊の画像だが、それが人に取り憑くことは、滅多にない。その者は自分自身のことで思考や感情が占められているから、他者に関わる余裕がない。もしあるとすれば、「自分の持つ感情に極めて近い感情を抱く者」、すなわち、「これから死のうとする者」だけだろうと思う。

 

 仮にこれが私の推測通り、N湖からずっと私に従って来た者であれば、本当に幸いだ。気(霊気)の流れのある地に来ることが、それまでの境遇を脱するきっかけになるかもしれない。

 実際に、この「女」はその後、一度も現れていない。

 (ちなみに、入れ替わりに別のが次々ついてくる。それにいちいち付き合うので、お線香を月に数百本も消費する。)

 

 こういうのに気付かず、そのまま放置していると、その者の感情により影響が生じることがあり、暗い気持ちになりがちだ。気持ちが同調すると、「やたら死にたくなる」ことがあるから、早期発見が大切だ。

 

 ちなみに、「原因不明の右脚痛」だが、「きっと老女を病院で拾った」と考え、ピンポイントでご供養を施した。一週間ほどで鎮痛剤が不要になった。

 年齢的にみて完治はしないだろうが、苦痛なく生活できればそれでよい。

 

 他の人を見て多く感じるのは、大半の人の思考経路はこうだ。 

 「たかを括っている」

 「異変が起きるが、やはりたかを括っている」

 「説明のつかない状況に至り、驚き慌てる」

 「超自然の力(祟りとか)を疑い、怖くなる」

 「神仏や祈祷師にすがり、助けを求める」

 この時には、もはや手が付けられない状況になっていたりする。

 初期に「疑い」を持ち、先手先手で立ち回れば、多くの場合、短期間のうちに解決する。

 ただ、無駄な知識(これまでの幽界や幽霊の認識)を捨てることが重要だ。

 恐怖を前に打ち出す者を信用してはならない。その人は実際には何も見えていない。

 何事も合理的に考えること。