日刊早坂ノボル新聞

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◎ガラス窓に映る人影

ガラス窓に映る人影

 「あの世」ウォッチングを本格的に始めたのは、ほんの小さな偶然からだった。

 心臓の治療の後、長らく体調が優れぬままだったが、神社猫のトラに会うことを励みにして、「トラの神社」に通うことにした。(当事者に迷惑をかけぬよう神社をこう呼ぶ。)

当初は「お百度」、すなわち「百回参拝して、百回この猫に会うまでは生きて居よう」という願を立てたのだ。

 これがもう七八年くらい前のことではないかと思う。

 それから、状況が許す限り神社参拝を始めたが、歩くのもままならぬ状態だったので、「この日参拝した」という記録しか残らない。数年間はその状態のままだった。

 それが、ある時、神殿の前で写真を撮影したことで変化が生まれた。その時、私の他には人が一人もいなかったのに、ガラス窓には別の人の姿が映っていたのだ。寒い季節の夕方の五時近くで、もはや境内に参拝客はいない。

 このことに気が付き、時々、ガラス窓を撮影することにした。

 すると、人影だけでなく、景色に異様な歪みが生じていたり、光が走っていたりすることに気が付いたのだ。

 意識して「ガラス窓」、とりわけ「ガラス窓に映る自分」の撮影を始めたのは、平成三十一年頃だから、まだ最近のことだ。(本人の意識の上では「はるか昔」のことのように感じる。)

 当初は、まだ環境条件の確認が甘く、「たまたまそこを通りかかった人が映り込んだ」可能性が入り込む余地があったが、すぐに慣れ、探偵なみに常に周囲の人数や位置関係を確認するようになった。異変を捕捉したり感じたりした時には、併せて自身の周囲の状況も撮影している。

 今回は、ガラス窓の景色に発生する歪みや異変について、幾つか解説を記したいと思う。

 

1)他に物理的な要因がある場合の歪み

 画像に歪みもしくは揺れが生じる典型的な事例は、ガラス戸の合わせ目付近で生じる「二重映り」だ。

 前回の画像を例にとると(図1-1)、ガラス戸の合わせ目の左右各々に、私の右腕が映っている。

 これはガラス戸の角度が微妙に異なるために、私を含め、景色が二方向に映し出されたことによる。

 図1-2では、左側が左のガラス戸を基準として画像を接合した場合で、右側が右のガラス戸を基準に左右の景色を接合した場合になる。双方に映し出された背景はそれぞれ視角が異なっている。

 「二重映り」が生じた時には、この「合わせ」を行うのだが、たまに左右両方の画像にはないものが映ることがある。過去ログを見ている人は分かると思うが、二重映りの際に「私の背後に女がいる」と記す場合は、左右双方で確認出来ぬ女の人影が見える、という意味だ。

 

 この画像には、もうひとつの歪みがある。それは画像左側の樹木の左の草木がぼやけていることだ。ガラスにうねりがある時などにこんな風に歪むが、普段はこのガラス戸には正常に背後の景色が映るので、ガラス面のせいではない。

 図2-1は比較的正常な映り方をした場合の見本だ。ガラスの合わせ目は画像の左側と右側の二か所存在しており、左には記念碑と石柵があるが、この個所に歪みはない。右側の私の近くは二重映りになっている。

 

2)遠景だけが歪む場合

 図2-2も割と正常な映り方をしている。画像中央から右の家屋は若干歪んで映っているが、まだそれが家屋だと分かる。なおこのように画像が歪むのは画像の中だけで、ガラス戸を目視した時には景色は歪んでいないので、念のため。

 左側には撮影者である私が映っている。

 私は右腕が少しだけ膨れているわけだが、さほど気になるほどでもない。だが、私のはるか後方にある草木は横に流れてしまっている。ガラス面のうねりであれば私の姿も歪むことになるし、手ブレであれば画像全体が歪む。ここでは私の後方の景色だけが流れている。

 要するに、何か「別の要因」があるということだ。

 ここまでは前回の画像の中から拾ったものだ。

 この先は、過去の画像から幾つかの事例を取り上げる。

3)画像一部の極端な歪み や 説明のつかぬ光線

 図3-1はこれまで同様にガラス映像を撮影したもので、地上三メートルの高さにある石柵が映し出されている。

 ガラスの合わせ目があり、左側の景色に乱れが生じている。

 これと同じことが時々起こり、図3-2ではさらに顕著な歪みとなっている。

 (明暗で分かりにくいが、ガラスの合わせ目が筋となっており、その左右で景色にズレがある。)

 こちらでは左側のガラス戸の合わせ目の左に著しい歪みが生じている。ガラス面の物理要因ではここまで歪まない。

一方、背景の空中に、光の筋が三本程度横に走っている。

 この境内ではこれが時々映る。当初は「電線に光が反射したもの」かと見なしていた。ちょうどそんな風に見えるわけだが、しかし、そもそも境内の上空に電線など通じていない。

 この稲妻めいた光については「地磁気に変化が生じた時に出る」みたいなことが言われているが、正確なことは分からない。

 何かしら物理的な要因が関わっていそうな雰囲気ではある。

 

4)撮影者(私)に生じる姿の歪み

 図3-3は、令和元年のものだ。平成三十一年から同令和元年中は、最も異変が起きた年になっている。

 毎年、夏場は不審事が少ないのだが、この画像では、私の右腕が異様に膨れて映っている。

 繰り返しになるが、ガラス面を目視で見る時には歪みは生じておらず、この変化は画像の中だけに生じるものだ。直接、目で見ている時と、画像に残った景色が異なる。

 ガラス戸の合わせ目の右側にも二重映りした肘が見えているが、異変は左側の戸だけに起きているようだ。

5)その場にいない筈の人影

 図3-4は平成三十一(令和元)年の一月に、既に薄暗くなった神殿前で撮影したものだ。

 夕方でもあり、境内の中にいたのは数人で、神殿の前には私一人だけだった。

 何気なくコンパクトカメラで正面を撮影したのだが、その場には存在しない人影が幾つか画像に残っていた。

 とりわけ右側にジャケットを着て、眼鏡をかけた中年女性の姿が映っている。

 ガラスの合わせ目で、二重映りのようでもあるのだが、よく見ると左右の人物のかたちが違う。

 そして、この画像を点検していて気付いたのだが、二重映り(?)の左右の像の間に、男性が顔を突っ込んでいるのが見える。

かなり朧気だが、少なくとも人影であることは分かる。

 この当時は、状況がよく呑み込めず、気付かぬうちに「生身の人間(参拝客)が近寄っていた」のかと思ったりもしたが、前後の画像を確認すると、やはりその場に人はいなかった。

 

6)疑いの余地なく「その場にいない人」の姿 

 ガラス映像に生じる異変の中で、最も分かりやすい異変は、「疑いの余地なくその場にはいなかった人の姿」が画像に残るケースだ。

 ここで例示する図3-5は令和二年の一月のもので、感染者を乗せたクルーズ船が横浜に到着したかどうかと言う時期のものだ。

 その後、ひと月で事態が一変するわけだが、まだこの時は誰もがこれから起きる社会の変化について、知らない。

 神殿の前、遠目から撮影したので、この場には私一人しかいないことがよく分かる。

 ところが、神殿のガラス戸を拡大してみると、私の左前に男の姿が見えている。

 これは「かもしれぬ」という程度ではなく、確実にひとの姿だ。

 この男は、何やら消防隊か宇宙飛行士が切るような防護服を身に着け、ヘルメットのようなものを右脇に抱えている。

 状況的に因果論めいたことを思わせるが、この男が現われた理由は、この画像では語られていない。

 ここで起きた事実は、ただ、「防護服のようなものを身に着けた男の姿が画像に残った」ということだ。

 撮影者(私)の姿が見えており、体の大きさを比較すると、その男が「私の前に立っていた」ことが明白だ。この画像が示す通り、この場には私の他に誰もいない。

 結果的に「たまたま」や「別の要因」を想定し難い画像となっている。

 

 ちなみに、右上に女性が叫ぶ顔のようなものが見える。しかし、こちらは室内にある人形のシルエットが「たまたまそう見えた」ものだと思う。位置関係がそうなっているわけだが、これが女性の顔に見えたのはこの年だけで、それ以後は同じ構図で撮影しても人形の姿のままだ。

 

 さて、以上が「ガラス映りの中だけに生じる異変」の事例の幾つかだ。

 目視では捉えることが出来ぬが、ガラス面では数々の異変が残っている。

 多くの人が「あの世(幽霊)」現象について、「科学性」を絡めた言い方をするが、「科学的な視点」とは、経験主義に基づく立場を示す言葉で、簡単に言えば、「誰の目にも同じに見える」「何らかの規則に従っている」、「同一の原因からは同じ結果が起きる」ことなどを示す。

 「あの世」現象の実証の難しい点は、これが現われる環境条件(TPO)がよく分かってはおらず、常に確認できるとは限らぬことだ。

 要するに、常に「(幽霊の)存在を確認できるわけではない」ということになる。

 この理由の一つは、幽霊が「人間の可視域の境界線付近にいる」ことのようで、カメラを使用したり、赤外線を照射したりすると、姿を確認できる場合がある。

 いずれも光の波長に関するもので、画像だけに姿が残るのは、カメラは「人間の可視域の少し外側を捉えることが可能」であることに起因するようだ。

 ガラス面への反射はその条件を補強するもののようで、ガラスは光が透過する波長光と、反射する波長光を「分ける」効果を生じさせていることによる。

 これが「鏡」になると、鏡は殆どの光を返して寄こすことになり、むしろ異変を目視で捉えにくくする。

 鏡は頻繁に「恐怖を煽るためのアイテム」として使われるが、実際にはあまり異変が起きない素材だ。神社の御神体は多く鏡だし、家の玄関にも鏡を飾る。後者は外出前に「身だしなみを整える」用途があるわけだが、それ以外に「魔を中に入れぬ」アイテム、すなわち魔除けとして使われる。鏡に引き寄せた怪談を聴くと、「ちょっと何を言っているのか分からない」気分になる。

 鏡を特別に感じるのは、自身で思い描く自分の姿と、鏡の中の自分の姿が必ずしも一致しないことによる。自意識の上では、自分を「鏡の中の自分」よりも美的に捉えているからだ。この違和感が「特別さ」をもたらす要因で、鏡そのものから「魔」「恐怖」が生じるわけではない。

 

 さて、これまで私が腐心して来たのは、「合理的な見地に基づき情報を収集すること」になる。

 その意味では、「あの世(幽霊)」を「恐怖と共に語る」知見は何の役にも立たぬばかりか、科学的な検証を妨げる阻害要因になっている。

 「犯罪者が存在する」からと言って、「総ての人間が怖ろしい存在」と見なすのは誤りだ。人間の中には、普通に秩序を持ち暮らす者も居れば、乱暴な振る舞いをする者も居る。これは幽霊についても同じことだ。

 

 実証されてもいない世界観(宗教観)を振りかざしたり、あるいは盲目的にエセ科学を持ち出したりするのは、いずれも観察者としての最初の立ち位置を誤っている。

 「あの世」に関しては、今も恐怖を散りばめて語る(騙る)者が多数を占めるが、この姿勢を改め、率直に事実を見極める態度を取らぬ限り、死後の状況が解明されることはない。

 宗教家や霊能者、あるいはそれとはまったく逆の盲目的科学信仰者は、いずれも「あの世(幽界)」の理解を妨げる無用の存在だと思う。

 知るべきは「あの世の恐ろしさ」ではなく、「死後の存在を確認できるかどうか」、「自分が死後にどう振舞えばよいか」という文脈に従う知見だ。

 他の者には「遠い先の絵空事」なのだろうが、私には「差し迫った喫緊の問題」だ。