日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎この肘は誰のもの?(九月八日598の続き)

f:id:seiichiconan:20210911035332j:plain
f:id:seiichiconan:20210911035321j:plain
f:id:seiichiconan:20210911035309j:plain
f:id:seiichiconan:20210911035300j:plain
f:id:seiichiconan:20210911041646j:plain
令和三年九月八日撮影

◎この肘は誰のもの?(九月八日598の続き)

 色んな異変が時々起きるので、それに慣れてしまい、早合点することもあるし、判断違いも冒す。

 しかし、同じ場所で繰り返し何百枚も撮影しているので、少しでも異変があれば、すぐにそれと分かる。

 八日の画像では、左側のガラスにほんの少しだけ「肘の先」が映っていた。

 ガラス映像は、見えたまま映り、方向的には目視の時と左右が逆になる。

 映像の中で右に映っていれば、撮影者の右側の景色で、左が左側だ。

 一見、正面のガラスの他に左のガラスにも私の肘が映っているように見える。

 しかし、何だかしっくり来ない。

 そこで、前後の画像を点検し、配置的に有り得るかどうかを確認した。(いつも同じ構図で五枚から十枚撮影する。)

 背景と照合すれば、どの方向の景色が映っているかが分かる。

 

 結論は「私の肘では有り得ない」だ。方向的には湖側の景色が映っているから、私の立ち位置とは逆になる。

 外に人はいないから、肘が宙に浮いてしまうが、一番分かりよいのは、「ガラス戸の後ろに肘だけがある」だろうと思う。

 要するに、説明のつかぬ画像の類になると思う。

 

 そして、ここでそれが「風呂場で水に落ちる大きな音が響いた」ことや、「女の視線があった」ことと符号する。

 時々記す通り、あの世の者がひとに近づく時には、その相手の姿を真似て、自分のことを気付かれぬようにする。

 この段階で警戒し、手立てを講じて置けば、この後の影響は無い。

 これが単なる「判断ミス」か、「現実の一端か」は程なく分かる。

 通常、ご供養を始めて、数度できれいになることは少なく、数週間から数か月は近くに居る。いずれ姿を捉えるだろうと見ている。

 気の毒に、死んだ後のことを考えずに死ぬと、幽界に囚われ、そこに長く留まってしまう。自意識が自我を縛っているから、自身ではどうにもならぬことが多い。

 

 繰り返し記すが、こういうのは「この判断が正しいかどうか」こだわり、あれこれ模索するよりも、「それが存在していると想定して、ご供養を施す」方が早く収束する。

 判断ミスや思い違いであれば、何もしなくても差し障りは生じない。

 だが、何もしないでいて、それが実在していたなら、放置することで事態は悪化する。

 それなら、疑いがあった時に速攻で手を打てば、判断が正しかろうが思い違いだろうが障りが起き難くなる。

 そして、最も重要なことは、「自分自身で対処する」ことを心掛けるべきだということだ。

 

 追加画像)まだはっきりしないが、「着物の女」が来ていたかもしれん。

 この雰囲気は一昨年、頻繁に現れていた者ではないか。「お供」を複数連れているようだが、「協力しろ」と伝えているような気がする。

 いずれにせよ、十月にははっきりする。この場合、思い過ごしの方が有難い。

f:id:seiichiconan:20210911044522j:plain