日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎ガラスに映る異世界

令和三年十一月二十三日撮影

◎ガラスに映る異世界

 この場合、「鏡」ではなく「ガラス」なので念のため。鏡はむしろ「この世ならぬ者」が映りにくい媒体だ。人が鏡に自分自身を映した時にドキっとしたり、違和感を覚えるから、「魔が潜む」ような印象を与える。だが、それは心理的なもので、実際には、例えば幽霊は鏡には映りにくい。今の鏡はガラスを使うのでゼロではないと思うが、幽霊はむしろ鏡を嫌う。

 玄関に鏡を置いたり、護符代わりに鏡を持つのは、自分を見るためばかりではなく(姿見)、魔を遠ざけるためだ。

 鏡に生じた異変をとらえるビデオがあるが、ほとんどが合成だ。枠があるから切り貼りするのにちょうど良い。

 そもそも神社の御神体の多くは鏡だし(素材は違うが)、コンパクトをお守りに使うこともあるほどだ。

 鏡は光のほとんどを銀幕で全反射させるので、肉眼で見るのと変わらない。

 これに対し、ガラスに映った景色は、透過する光と反射する光を分けたものだ。

 波長が異なる上に、これをカメラで撮影すると、可視波長域を超えて景色を捉えることになる。

 このことの効果で、肉眼で見たものとは異なる景色が、ガラス撮影画像には写る。

 

 結論的なことを記すと、あの世的な異変が起きると、「ガラス映像は歪んで写る」。

 目視する限りにおいては、何の変化も無い。普通の景色が普通に見える。

 だが、これを撮影すると、景色が歪むことがある。景色が歪むことは、すなわち光が屈折するということだ。ただ、可視領域ではなく、その境界線の内外にまたがる傾向と見え、その歪みは「画像でしか確認できない」。

 冒頭の画像はちょうど一年前の本日に撮影したものだ。

 左側に地上から三メートルほどの高さにある石の柵が見えるのだが、これが著しく歪んでいる。ちなみに、これがガラス自体の歪みでないことは、「歪む箇所が移動する」ことで分かる。要は歪みが時として出たり出なかったりするということだ。

 中央の画像では、石柵には歪みは無いが、その代わり、私の近くに歪みが移動している。

 画像の私の個所を拡大すると、私の顔がふたつに分裂しようとしている。

 ガラスの歪みや、二枚ガラスの合わせ目があれば起こり得るのだが、この場所にはそのいずれも無い。この開示画像では判別がつかぬと思うが、私の後ろには青黒い顔をした女が立っている。

 ちなみに、この手の画像は、他人がどう思うかはどうでもよい。関りのない者がどう思おうが知ったことではなく、当事者(私)は「いる」ことを前提に対応策を考えて置く必要がある。

令和三年十一月二十九日撮影

 次はそれから一週間後の画像だ。

 最初はやはり左側に景色の歪みがあるのだが、この歪みの個所が枚数を重ねるごとに移動する。見慣れて来ると、この歪みがちょうど霧のように見え、その奥に何かが蠢いているのが見えるようになる。

 重要なのは、人影そのものではなく、その者が持つ「意図」になる。片目ひとつしか見えずとも、悪意を持つ者はそれと分かることが多い。

 何百枚も見ていると、暗闇の中に視線を感じるようになるし、その視線がどのような感情を持っているかが伝わるようになる。

 繰り返しになるが、こういうのは他人に理解して貰う必要はない。探査の目的は理解を深めることでも、周知させることでも、ましてやネットで「ウケる」「バズる」ことでもない。総ては危機を未然に察知し、遠ざけるためにやることだ。

 

 五枚連写したのだが、目視ではどれもこれも普通の景色として目に映っている筈だ。

 肉眼では認識し難い。

 少し分かりよいのは最後の画像で、私の右脚が途中で消失している。

 もちろんだが、室内に灯りがあり、その窓ガラスに映る外の景色を撮影したことから、その光陰により「たまたまそう見えた」ということもあり得る。

 この先はリスク管理の考え方で、「気のせいだと思いなして何も準備しなかったとき」「かもしれぬと考えて、手立てを想定するとき」のいずれかと問われれば、数学的思考に基づき、「後者」を選択するのが正しい。

 

 昨年の十一月には、既に「障り」が始まっており、この年の年末に始まり、三月から六月くらいまで、「生死を分かつ危機」が訪れた。

 今は「どの時点で何が兆候として表れたか」を探っているが、なるほど、どんどんと集って来ていた。

 「罠」は各所にあったが、それが「企み」だということが分かっていたので、自分なりの確信を持って対処出来た。

 

 「この世」と「あの世(この場合は幽界)」は重なって存在している。

 双方が互いに「認識し難い」とう関係にあるだけだ。だが、影響は及ぼし合っているので、丁寧に観察することで、自分なりの対処法を見出すことが可能になる。

 まずは「霊とは怖ろしいもの」という考えを捨てることだ。恐怖心があると、人の心は幽霊たちに支配されやすい状況になる。

 「怖ろしい」と思うことは、「相手を認める」ことで、その時点で「従属させられる」「従属する」境遇を受け入れるのと同じ意味になる。

 冷静、客観的に、かつ合理的に考えを導くことが肝要だ。