日刊早坂ノボル新聞

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◎何ひとつ解決していない (644)

飯能 能仁寺にて

何ひとつ解決していない (644)

 昨夜、午前三時頃に階下に降り、コーヒーを淹れようとしたら、すぐ近くに「黒いひと」が立っていた。

 従前は「カウンターの陰に女がいる」ことが多かったのだが、今回は「黒いひと」がまともに出た。このところ、頻繁に視界に妙な光が走ると思っていたら、やっぱりこういうことだった。

 昨年の秋に、稲荷村社で悪縁(霊)を拾ってから、次から次へと性質の悪いのが来る。

 三月から五月にかけては、酸素が要るほどで、危うくあの世に入るところだった。 

 ま、次の冬はかなりヤバイ。

 秋になり涼しくなったら、やはり不整脈が出るようになり、秋の花粉(症)も始まっている。

 やはり次第に弱っているのか。

 

 さて、話を遠回りさせることにする。

 私の遠縁の金太郎さんは、末期がんで入院していたが、医師に「最後の帰宅」を許された。次に具合が悪くなったら、もはや病院から出ることはない。

 自宅の座敷に布団を敷いて横になっていると、勝手口から男が家に上がって来た。ずんずんと居間を通り、座敷に入って来たが、見知らぬ男だった。

 顔が青黒く、ひと目で「この世の者ではない」と悟ったそう。

 金太郎さんは「コイツは俺をあの世に連れて行くために来たのだな」と思い、「まだしばらくの間待ってくれ」と丁寧に頼んだ。

 すると、男は少しの間思案したが、結局、金太郎さんを連れては行かず、家から一人で出て行った。

 金太郎さんは医師に「あとひと月」と言われていたが、それから持ち直して、一年くらい生きた。

 その間、誰彼となく「青黒い顔をしたお迎え」の話をした。

 

 私はその話を聴いていたので、自分にお迎えが来た時に、「金太郎さんの言っていたのはこれだ」と気が付いた。

 心臓の治療で、入院中だったが、夕食後に病室のドアを開けて、二人組が入って来たのだ。二人は私のベッドの前に来ると、並んで私を見詰めた。

 私もすぐに「こいつらはこの世の者ではない」と悟った。

 何だか顔つきが「凄まじい」。背広やジャンパーを着ていたが、何とも薄気味の悪い気配に満ちていた。

 一人の顔は、かつての悪役のリー・バン・クリーフを無表情にしたような感じだった。顔色はやはり青黒い。

 神話で、イザナギが冥界にいるイザナミを連れ戻すために、地下に降りて行く話があるが、死せる魂となったイザナミは「なんとも言えず凄まじい顔」をしていたという。

 二人組の表情を思い出す度に、私はこの神話を思い出す。

 この時、私は「傍に寄るな。この野郎」と叫び、抵抗した。

 二人組は手を伸ばし私を捕まえようとしたが、どういうわけかアクリル板のような壁に当たり、そこから入っては来なかった。

 まだ死ぬべき時ではなかったのか、あるいはたまたまなのかは分からない。

 ただ、そのアクリルの壁は、正面だけで横には無かったから、二人組が横に回れば容易に捕まえられたと思う。

 二人組はそのことに気付かず、舌打ちをして去った。

 

 これら自他の体験は、もはや何年も前の話だ。

 その後、あの世ウォッチングを続けているが、断片的な証拠らしきものは出ても、一発で分かるような決定版は出ない。

 そういう意味でも、「まだ死ねない」と思う。

 だが、事態はどんどん先に進んでおり、今ではより一層、手強い者たちが集って来るようになった。

 「黒いひと」もその仲間だ。幽霊のようでいて、人間らしさが塵ほどもない。通常、幽霊は感情だけの存在なのだが、「黒いひと」は喜怒哀楽の痕跡すら感じさせない。

 画像では時々見ていたが、まさか自分のすぐ脇の「手の届きそうな位置」に立つとは思わなかった。

 

 「これまで、お迎えが来るのはまだちょっと先になったと思っていたが、実は次々に来ていたのかもしれん」

 そして、どんどん厄介さが増しているような気がする。

 ほんの数か月前には、病棟の誰もが「次(に死ぬの)はこの人」だと、私を指差していたに違いない。

 

 朝になり、すぐに支度をして、お寺に行くことにした。

 とりあえず、お焼香をして対話を心掛けることにしたわけだ。

 前回と同じに、飯能の能仁寺にしたが、ここは我が家から近いし、駐車場にも困らない。

 

 山門の下に立ち、参道を眺めると、石燈籠のところに女のひとが立っていた。紙の袋を下げ、ただぬぼうっと俯いて立っている。

 「ありゃ。アイツは人間ではないかもしれん」

 すぐにカメラを出して撮影した。

 ファインダから目を離したが、女性はまだ立っている。

 「幽霊だったら、普通は長くて数秒だよな」

 では人間か。

 念のため、その場で画像を開いたが、画像に女性の姿は無かった。

 「おいおい。ここは境内の中だよ。ここでも出ちゃうのか」

 だが、何年か前に北陸の※平寺を訪れた際に、お坊さんが「寺の中でも人気のない部屋で物音がする」と言っていたことを思い出した。

 ま、当たり前だ。ニキビと幽霊は出るところを選ばない。

 

 不審なことに、石燈籠は七本くらい立っていた筈なのに、目視で指折り数えても五本しかない。画像で数えても六本だ。

 数が変わるってのはアリなのか。

 ま、病気がどんどん進行しているから、心神耗弱がさらに強まり、妄想や幻覚を見る機会が増える。

 そもそも、もはや何年も前から、私は「夏目漱石シンドローム」だ。おまけに、今では、人体の姿をしていなくとも、それが幽霊(のしわざ)だと確信することが頻繁にある。

トラの神社にて

 さて、長くなったので、一旦、ここで区切る。

 他人には伝わりにくい話しなので、続きを書くかどうかは分からない。書いても、殆どの人が理解できぬと思う。

 何故なら、「お迎え(死神)に会い、その後一年以上生きている人などほとんどいない」からだ。「臨死体験」「お迎えに会った経験」の実話を集めているが、後者は半年から一年の間に「お迎え本番」が来たケースばかりだ。

 あれを見る前と後では、世界観が裏返しほど変わる。

 

 この先はおまけだが、「ようつべ」であるタレントがこんな話をしていた。

 「もし幽霊がいるのなら、今生きている人よりも死んだ人の方がはるかに多いのだから、あの世が幽霊で溢れてしまう。これは有り得ない」

 この話は最初の設定が誤りだ。

 この設定では、「死んだ人が幽霊になり、そのまま留まっていたら」という仮定・仮説が含まれている。

 そもそもその仮定・仮説が正しいとは言えん。

 タラ・レバの前提に乗る話は、何の証明にもならない。

 これは置き所を変えると、次の例と意味は同じだ。

 「ひとは毎日、何万人も生まれて来る。際限なく生まれて来るのだから、もし生まれた人が死ななかったら、この世は人で溢れてしまう」

 「生まれた人が死ななかったら」は「死んで幽霊になった後、そのまま消滅せずに幽霊でいたら」という仮定・仮説に通じる。タレントの話には表立って出て来ぬが、実際にはこの仮定が存在しているわけだ。これには何の根拠もない。

 まさかネット動画や、霊能カウンセラー、宗教家の言う、実証的でない、多く捏造を交えたものを霊的現象だと思っているわけなの?

 

 幽霊は自我だけの存在で、それを保たせているのは感情だけだ。生きている人の場合は自我の拠り所は五感(肉体)なのだが、死ねばそれを失う。

 幽霊は自我を保つのが難しい。心を固くするのは、多くマイナスの感情(恨みや憎しみ)だから、そういう負の感情を強く持っている幽霊を見掛ける機会が多くなる。

 だが、恨みつらみを抱えぬ者は、自我を繋ぎ止める力も弱い。

 このため、時間の経過と共に、人間がいつかは死ぬのと同様に、幽霊の自我はいずれ崩壊して行く。

 よって、あの世に幽霊が溢れることはない。

 

 そもそも、幽霊が「スポット」みたいな特別な場所だけにいると思うこと自体が誤りで、実はどこにでもいる。

 ただ、人間には知覚し難いから気付かないだけ。

 「空気は見えぬし、触れぬから存在しない」という人はいない。

 そういう性質の物質だということ。

 幽霊の特質を支えているのは、恐らくは未知の物質だ。気体のようでもあり、波のような特徴も持つ。

 

 科学的思考の原点は「規則に従う」「同じ要因からは同じ帰結が生まれる」「誰の目にも同じに見える」などという視角だが、こと幽霊やあの世については、常に目視出来る環境が揃うわけではないので、条件を整えるのが難しい。