日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎すぐ傍にいる  (「あの世ウォッチング」の始まり)

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平成三十一(令和元)年一月二十一日撮影

◎すぐ傍にいる  (「あの世ウォッチング」の始まり)

 身近なところに、「この世ならぬ者がたくさんいる」ことに気付いたのは、ほんの数年前だ。それまでも出先で煙玉や人影が写真に撮れたりしていたが、年に数回くらいだけ。

 声を聞くことは昔からだが、「気のせい」だと見なしていた。

 幽霊を体験することもあったが、特別な場所(スポット)での特別な体験だと思っていた。

 

 だが、お寺や神社では、繰り返し画像に現れる。

 「これは現実に起きていることなのか」と半信半疑で繰り返し撮影すると、やはり同じように現れる。

 もちろん、幽げな領域で起きることなので、はっきりとしたものではない。

 だが、「これはおかしい」と思えるものなら、1年間に百枚は下らない。

 

 この一昨年の画像は、これまでも幾度か掲示して来たものだ。

 周囲に人はいないのに、ガラス窓に人影が映っていた。

 割と分かりよいので、数か月の間は、その場にいた人を見逃していたのではないかと疑っていた。だが、前後の画像を全部検証してみると、「たまたま」が無かったことが分かった。

 その意味では、本格的にあの世ウォッチングを始めるきっかけになった画像だ。

 二年ぶりに前後の画像を開いてみたが、その当時には分からなかったものも今は見える。

 五六人組の男女の集団は、その後も時々、この神社の画像に現れている。

 いつも同じ状態で現れるから、このようなかすかなシルエットだけのものでも、それと認識できるようになる。

 彼らが向かう先は壁か岩山だから、行動そのものが理不尽だ。

それ以前に空中を進んでいる。

 この画像だけでは分からぬが、現地に行き、環境を確かめれば、「異常だ」とすぐに分かる。

 

 二人組については、繰り返し解説して来た通りだ。

 一時、死線に足が掛かったことがあり、その時に「この世の者ならぬ」二人組に会ったことがある。いわゆる「お迎え」という表現に近いものだ。

 それ以来、二人組の幽霊には少なからずドキッとさせられるようになった。

 見慣れて来ると、幽霊が存在すること自体は何とも思わなくなる。

 多少、面倒が生じることがあるのは、幽霊そのものではなく、恨みや妬み、怒りなどの負の感情や、念を伴う悪意の方だ。

 ひとの心ほど悪意に満ちたものは無く、これは生者も死者も変わりない。