◎「お迎え」への対処
母の死期が近づいた時、「お迎え」が現れたのは本人ではなく父の許だった。
(もっとも、母の前には頻繁に「何か」が現れていたようだ。)
父はその当時認知症傾向が顕著だったので、周囲は誰もそのことを信じず、「もうボケた」と見なした。
私がそのことを知ったのは、母の亡くなる直前だったが、もはや対処できない状況だった。
そこで「お迎えならばセージを嫌う筈だ」と思い、母の部屋のベッドの近くにセージの小皿を置いたのだが、ほんのわずかな量のセージの臭いを、母は「強すぎるから」と私に命じ捨てさせた。
その時、私は「もはや半ば以上、母はあの世に入っている」と感じた。
数日後に母は入院し、ひと月後くらいに亡くなった。
痛恨の思いは、もし父の話を直接聞いていれば、私は「それが妄想ではない」と気付いていただろうことだ。
気付いていれば、きっと制止できたと思う。
私には五年以上前に「気味の悪い二人組」が現れた経験がある。その時、「これはたぶん『お迎え』だ」と気付き、自分なりにではあるが祈祷を始めた。おそらくそれが柱になり、死期を遠ざけることに成功している。
ちなみに、二人組は「夢に観た」とか「そんな気がした」という次元の話ではなく、夕食後にベッドに座っていたら、その二人組がドアを開けて入って来たのだ。
即座に「これはこの世の者ではない」と分かったのだが、その後で考えてみると、二人組の周囲の景色が歪んでいたことでそう思ったのだ。相手の周囲がぐねぐねと曲がっていれば、異常さに驚く。
こういう状況は、早めに手を打てば、概ね半年か一年は死期を遅らせることが出来る。上手く行けば、私のように何年かの期間で延命できる。
まずは、あの世が実存であることを受け止め、実在すると信じることが第一だ。
殆どの人は分かっていない筈だが、「信じる」ことは「現実の一端として受け止める」ことで、「願う」ことではない。神社の前で「幸運を願う」のとは違う。
現実として眺め、生と死が繋がっていることを知り、改めて対策を考え、繰り出すことが大切だ。
それで今生の「生き死に」の運命を「幾らか」変えられる。
言葉ではうまく説明できないが、元々、知識では解決できない。
「繰り返し深く考え、感じ、それを行動に移す」ことが重要だ。
「写経※百回」などという馬鹿らしいことはするな。習い事や修練ではないのだから、書くより、よりよくその意味を考えろ。「意味」とは「言葉としての意味」ではなく、自身の人生観に移し替えて、改めて眺めるということだ。
今は神殿の前に立った時に、ガラス戸の中に「そこにはいない筈の人影」を目視する。
白い着物を着た女のことが多いのだが、過去を振り返ると、かなり昔から私の傍にいたようだ。
繰り返し眺めているが、どうやら私とは宿縁があるらしい。
この一二年の「女」の姿を系統的に拾ってみると、画像の通りになる。
(各々はこれまで公開して来たものだが、時を経るとかたちが変わるので、時折眺める必要がある。)
ちなみに、人間が死後すぐに赴くのが幽界だが、幽界は「自己都合で延命を図る」幽霊のいるところだから、そこに「守護霊」みたいな存在はいない。
ただ、気質が似ているか、関りが深い者は居るようだ。
白い着物の女も、私とは何か関りが深い相手なのだろう。手首を鎖で繋がれた画像があるが、あれはこの女の意思を示したものだと思う。
「女」、あるいは幽霊一般は、ただ「ひとの心を眺めている」だけなので、心または感情だけにしか影響をもたらさない。
「ナニナニ霊」みたいな表現は、概ね願望や信者を惹き付けるための手段に過ぎない。幽霊は人事には関わらず、感情を共有するだけ。
まずは、これまでの「あの世に関する無駄な知識」を捨てることからで、眼を開き、耳を欹てれば、いずれ見えるし、聞こえるようになる。