日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎どうやって窮地を脱したのか

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令和元年五月八日撮影

◎どうやって窮地を脱したのか

 一昨年の十一月頃から体調が悪くなり、数十メートルの距離ですら歩けない状態になった。十二月には括約筋が緩くなって来たので、「もうそれほど長くはもたない」ことを実感した。

 「俺は到底、三月まではもたない」

 実際、起きられない日が多くなり、日がな寝たり起きたりの日々だ。

 病院に行き、買い物を少々するくらいで、あとは何も出来ず横になっている。

 多少、調子が幾らかましな時には、精神状態を整えるためにお寺や神社に行った。

 半ば以上は、神社猫のトラに会い、慰めて貰うためだ。

 私にとっては、あの猫が最大の友であり仲間だった。

 

 三月を何とか超え、四月に入ると、トラの姿が消えた。

 中旬くらいまではいたのだが、ふっつりと姿を消したのだ。

 かなりの高齢でもあったから、おそらくこの世を去ったのだろう。

 家人は「ご主人様の家でのんびりと老後を過ごしているんだよ」と言ってくれたが、それは気落ちしている私を慰めるためだった。

 最後に会った時には、トラは私を離すまいとして爪を立てていた。トラが爪を立てるのは、それが初めてだったから、たぶん、自身の死期を悟っていたのだろう。

 

 異変は五月に入っても続いており、いつも後ろに「誰か」が付いて来ていた。

 台所に立っていると、カウンターの陰に「誰か」が隠れており、時々、こちらを覗き込む。視線に気付き、気配のした方を向くと、手足の先や着物の裾がちらと見える。

 そういう時は、「ああ。俺が倒れるのを待っているのだな」と実感した。

 

 五月のこの写真は、少し歩けるようになって来た頃のものだ。

 階段はもちろん上れぬが、神社の駐車場から境内までの百メートルくらいなら、立ち止まらずに歩けるようになっていた。

 神殿前で撮影すると、すぐに左側の人影が目に付いた。

 ここは石垣があり、灌木が数本立っているだけの場所だ。

 ところが、当時そこにはない筈の草叢が盛り上がっている。

 よく見ると、それは草模様の着物を着た人影なのだが、頭の部分が薄れている。

 「あ。こいつは」

 冬の間に、私の家の台所で、時々、覗き見してくるヤツではないか。

 他の誰も分からずとも、私には分かる。何故なら、ガラス映りの画像だけではなくて、直接、姿を見ていたからだ。

 

 あれから一年が経ち、あの頃のような煩さや煩わしさは無くなった。

 今振り返ると、私自身は間違いなく「自分の死期を観ていた」と思う。しかし、それをどうやって脱したのか、その具体的な方法がよく分からない。

 可能な限りガラスに映る自身の姿を撮影し、そこに異変を見取った時には、お祓いとご供養を施しただけだ。

 神職・僧侶・祈祷師は「念の力」を高めることで、あの世との間に境界を引くことが出来るのだが、私のような素人の祈りが、そう簡単に通じるとは思えぬ。

 おそらく、祓ったり、遠ざけたりしてはいない。

 その頃の私が考えていたことは、「あの世の者と仲間になる」ことだった。

 そのために、考えを声に出して伝え、幽霊を対等に扱った。ただそれだけ。

 

 あとはまだよく分からない。

このため、時々、過去を振り返り、どうすれば、あの世と仲良く出来るのかを探ることにした。

 

 世間で言われるところの「あの世(幽界)」や「幽霊」に関する見解は、多く実態に即さぬ誤謬を含む。恐怖を覚える人が多いだろうが、それも単に想像や妄想が創り出したイメージに過ぎない。

 いつも「恐れぬこと」「敬意を示すこと」を説いているが、多くの場合、節度を守れば何も起きない。私は幽霊に抱き付かれることが時々あるが、だからと言って、何か悪いことが起きるわけではない。注意深く、自分とその相手の間に「境界線を引く」だけだ。あくまで意識上の境界線だから、「相手に同調しない」というだけ。

 また、上記二つの心得と共に「常に例外はある」とも書いているが、「あの世」がいざ怒りを示す時には、生ける者が想像出来ぬような恐ろしいことが待っている。

 小説や映画では、祟りによって主人公が死ぬと話は終わりだが、実際には死んでも終わらず、死後も延々とそれは続く。

 

 生きている者にとって最も怖ろしいことは、「死ぬこと」自体ではない。

 死は必然なのだから、怖れても怖れずとも、必ずやって来る。

 それなら、過度に怖れることほど無駄なことは無い。

 本当に怖ろしいのは、自身の死期を予期せずに、突然、死ぬことだ。

 そういう死に方をすると、多く自身の死を認識出来ず、死後、あてもなく彷徨うことになる。その時には思考能力を失っているから、容易に先には進めない。

 

 「お迎え」「死神」は「死の匂いを嗅ぎ取った」幽霊たちが、今にも死のうとする者の周りに集まって来る現象だと思う。

 それがひとつの「現象」であるなら、それは実は朗報でもある。

 死期を目の前にした者が、何がしかの間でも、それを遅らせることが「可能になるかもしれぬ」ということを意味するものだからだ。