◎束の間の休息(552)
本格的に「あの世」探索を始めるようになり、ほぼ五年半が経つ。
これを始めたきっかけは、「あの世が近くなったから」という、ごく単純なものだ。
当時は心臓を治療した後の経過が思わしくなく、数十メートルの距離すら歩けない状態だった。もちろん、階段など上れない。
自身の死を覚悟し、お寺や神社を回るようになったのだが、たまたまある神社(今で言う「いつもの神社」)を訪れた際に、猫のトラが鳥居下から神殿の階段まで先導してくれた。トラとは初対面だったが、この猫は「こうすればいいのよ」と言わんばかりに私を導いてくれたのだ。
それが縁となり、「せめて百回トラに会うまでは生きて居よう」と考え、「御百度」を始めた。それ以後、年に百回前後、この神社に参拝するようになったのだが、トラの死後もこれが続いている。他のお寺や神社にも行くから、年間百五十日以上はいずれかのお寺や神社の境内に入る。
そういう日々の中で、たまたま「ガラス窓に、そこには居ない筈の人影が映っている」ことに気付いた。
当初はそのことが信じられずに、自身の感覚を疑った。
「今にも死にそうになっているから、妄想を見るのだろう」と考えたのだ。
近所の高齢者にもそういう人がいたし、有名なところでは夏目漱石もそうだった。
実際、私自身も、入院中に「お迎え」らしき二人組に会ったことがある。
自分自身の「感覚」自体は信じられなくとも、「画像に残る」のでは、「客観的に存在している」可能性が高くなる。
そこで、「そこにはいない筈の人影(幽霊)」を調べ始めたというわけだ。
TPOの幾つかは既に判明している。
幽霊が画像に残るケースで、最も多いのは次の環境だ。
1)やや強めの日光(赤外線)が地平を基準に60度から70度の角度で当たっている場合。
2)複数の角度から光が交錯する場合。これは「日光+フラッシュ」、「日光+フラッシュ+ガラス反射」などだ。ガラス窓に幽霊が写るのは、複数の角度で光が透過または反射するからだろう。
3)空気が乾燥している時の方が写りやすい。結果的に夏よりも冬の方が多くなる。
ただ、幽霊は可視聴域の境界線を跨ぐので、可視域側に居る時と、不可視域に居る時とで、条件が少し変わる。可視域に入っている時には、通常撮影でも写る。
完全に境界線から離れると、どうやっても写らない。等々、様々な条件がある。
現状では幾つかの仮説を得ている。
「肉体の死後、一定期間、自我(自意識)が残る」(残存自我:これが幽霊)
「幽霊は物理的に存在している」(ガラスの継ぎ目で二重映りするから実体として存在。)
「時間の経過と共に崩壊して行く」
あとは推論になるので、ここでは省略。
ここまでの段階で、過去における「幽霊」「あの世」に関する言説・言質が「取るに足らない」ものであることに気付く。総てが想像であり妄想に過ぎない。
これは幽霊(狭義の霊)を「肯定する側」も「否定する側」も同じ。いずれも「信じる」だけで、実証が伴わない。
ここで冒頭に戻るが、まず、こういう検証は、「好奇心」とか「知の探究」のために行っているものではない。よしんば、「ネットで受けよう」みたいな意図によるものではない。
まずは私自身が死後に「迷わぬようにする」ことが先にあり、次に私のような悩みを持つ人にとっての何がしかの「助け」になればよい、と考えるから公開している。
自身の経験から、他の人に「あの世を探索してみてはどうか」などとは勧めない。
その理由は簡単で、「幽霊は自身を見てくれる人の周りに集まる」傾向があるからだ。
多くの幽霊は暗闇の中に独りぼっちでいるので、自分自身を「見てくれる」相手を感知すると、大急ぎで寄って来る。そして、その相手の耳元で「助けて」「助けて」と叫ぶ。
こういう幽霊が集まると、さらにその幽霊たちを目当てに集まる者も来るようになる。
結果的に、「あの世」探索を始めると、「説明のつかない現象」に触れる機会がどんどん増えてしまう。
波及的な効果も生じる。例えば、毎日、何十回も悪戯電話が掛かって来るようであれば、電話が掛かると、それを「また悪戯電話か」と見なすようになってしまう。それと同じで、経験を踏めば踏むほど、「判断間違い」が増えるきらいがある。
「風で薄がそよぐのを見ても、それが幽霊の仕業に見える」ようになるのだ。
これを避けるためには、時々は「頭を冷やす」ことが必要だ。
そこで、意図的に「幽霊を検知し難い環境」に身を置くようにするのだが、こうすると、少しの間、「あの世」から離れられる。
年間を通じ、幽霊を感知・検知しやすい時間帯は、午前午後とも二時から四時までの間だが、季節によって前後に動く。今の季節であれば、検知しやすいのは二時前後だから、この時間帯を避ければ、大概のことは起こらない。
このため、昨日十七日は、午後四時頃にいつもの神社に参拝した。
空は曇っており、徐々に薄暗くなりつつある。
境内には先客が一人いたので、その客が去るのを待ち、窓ガラスの中の自身を撮影した。
やはり、外の景色はほとんどガラスに映らず、画像には室内の様子が写し出される。
新しい出来事が起きるスピードがどんどん速くなっているから、こういうのは助かる。
危機を早めに発見出来るのは有難いが、時々は休みも欲しい。
少しく安心し、数枚ほど追加撮影して家に帰った。
自宅のPCに向かい、「こんな風に穏やかな日もあって欲しいもんだな」と思いつつ画像を開いたのだが、しかし、どうやらそうも行かぬようだ。
すぐに違和感を覚えるような箇所を発見した。
まずは四枚目の画像の右側だ。室内には掲示板があり、これには拝礼の作法が図示されている。逆に、ガラスに映っているのは、神殿の外にある建物の屋根だ。屋根の庇の部分が三角形の頂になっているのだが、影がこれと合致していない。
よく見ると、屋根の「前」に頭のようなシルエットが立っている。要するに、室内でも屋根でもなく、その中間にあるということだが、隣に柱があるので、神殿の入り口にある門の下になる。
その位置に、黒いガウンかコートを着た女性の姿が見えている。
ここが判断の分かれ目だ。
多くの人は「きっと見間違い」「目の錯覚」だと思う。だが、それでは屋根の前に頭があることの説明がつかない。ガラスの向こうにあるのは板で、周囲には影が出来る物がない。
一方、頭が少し尖っているようにも見えるが、画像が歪み、屋根が横に詰まっていることから、歪みの影響かもしれぬ。
シルエット自体は、これまで幾度も目にして来た「黒い女」、すなわち「スペードの女王」とほぼ同じだ。柱の脇にロングコートを着た女が立ち、こっちを見ているような佇まいだ。
ここで自分自身の方に眼を向けると、私の後ろにも黒い影があるように見える。
ただし、こちらは祭壇の影と重なっているので、あまり鮮明ではない。
祭壇の左右の影が違って見えるので、それと分かる程度だ。
拡大してみると、右側の影は、少し上にうっすらと「視線」が出ているから、ほぼ「人影」だろう。
左側は60%くらいの割合で「黒いひと」の可能性がある。この「黒いひと」は幽霊とはまた性質の異なる「説明のつかない人影」だ。幽霊には付き物の感情が見当たらず、何のために立っているのかが分からない。多くは人の傍にいて、ただ「ぬぼっと」立っている。拡大すると、顔のようなものも見えるようだから、天気が良ければはっきりしたと思う。
言葉の言い回しが「黒い女」と「黒いひと」はよく似ているが、質がまるで異なる。
「黒いひと」の女の方では紛らわしいから、呼び名を検める必要がありそうだ。
いずれにせよ、不確かな部分が多々あるわけだが、ここで私の採るべき選択肢は常にひとつだ。それは「本物だと見なして対処策を講じる」ということだ。
これは「地獄の仮説」と同じ理屈だ。元々が「気のせい」であれば何も起こらぬし、本物であっても出来る限りの対策は打っている。どちらに転んでも悪影響が「無い」か「より少ない」結果となる。
「正体見たり枯れ尾花」なら、「悪影響が一切無い」という意味になり、私を含め誰にとってももっとも良い結果だ。
検証し、実体を確かめることは必要で重要なことだが、それ以上に「危機を未然に防ぐ」ことの方がいっそう大切だ。
予備知識も心構えも無い状態で、いきなり「お迎え」に対峙したら、為す術もなく連れ去られてしまう。
もちろん、一般人が出来る対処策は限られている。
「『お前の存在を知っている』と報せる」ことと、「『それ以上、傍に寄って来るな』と命じること」、また、「きちんとご供養を施すこと」の三つだ。
経文を唱えたり、破魔の真言・祝詞を唱えたりすることは、神職・僧職・祈祷師のすべきことで、意味を解さぬ一般人のすべきことではない。逆に幽霊の怒りを招くこともある。
私に幽霊が悪影響を及ぼすことは殆ど無いのだが、それも「三原則」をきちんと守っているからだろう。
繰り返し書いて来たが、幽霊と対峙する時の三原則は次の三つだ。
「怖れぬこと」
「弄ばぬこと」
「必ず敬意を示すこと」
このことは、「間に線を引き、お互いがその線を踏み越えないようにする」ことに似ている。
時々、「ここで見聞きしたことを拡散したり、ツイートしたりしてはダメ」と記すのは、三つ目に抵触する場合があるからだ。ちなみに、私はいちいち「相手(幽霊)に断って」画像を公開しているし、前後にご供養を施してもいる。
もちろん、アモンに「直接会ってみたい」のであれば、あえて止めぬ。だが、後戻りは出来なくなる。「あの世」には「容赦」「許容」というものがない。
さて、この日の画像で、私が最も気になったのは、六枚目の画像だ。
少し右に移動して、再度撮影すると、屋根の庇の部分に、前の画像とは別の人影が見える。これはブログ画像ではまったく見えぬと思う。
私にとっても朧気にしか見えぬのだが、父のシルエットに酷似していると思う。
これが直接的に何を示すかはまだよく分からないし、そもそも不鮮明過ぎる。
だが、もちろん、警戒は必要だ。